やっぱりここの構成上、昨日の分は、こちらに移転。
……感無量。
“家族”
この世界で、どれだけのそれがあるんでしょう。
ふとそんなことを考えてみる。
いや、感じる。
と、そうやってたどっていくと、やっぱり“どれだけ”っていう表現が間違ってるようにも思えてくる。
“数”じゃない。それを知りたいんじゃなく、感じたいんじゃなく。
それこそ、感じたいんだと思ってる。
掃いて捨てるほど、僕は言う。
“血”じゃ~ない。
“愛”でもない。
僕は言う。
「感じる部分」と。
愛や絆、言葉や気持ち。
そのどれもが変化する。
それすら、一時の“流行”と言ってもいい。
“流れて行く”
とはいえ、漢字を使うもんだから、漢字にはやっぱり1つ1つに意味があって、それを知ってるもんだから、そこからなにかを伝えたり、見出そうとしてみたり、それを知ろうとしたりする。
僕はそれが嫌いなんだ。
やっぱり、“感じる”ことが一番だ。それが一番純粋で、一番伝えたい、伝えようとすることなんだ。
知ろうと、わかろうと、理解しようと努めるから、いろんなことが邪魔をして、いろんなものを付け足して、自分のことさえわからなくなる。
だけど、感じることは複雑だ。1つだけじゃ決してない。
簡単でシンプルで、ほかには何もないなんて、そんなものはどこにもない。
1分1秒でも生きていれば、それはすぐに過去になる。
記憶があった。気持ちがあった。それは絶対揺るぎない。
ただ、それを表現しようとしたときに、たった1つだったりする。
愛だ……そう感じれば、それが愛だ。
嫌い。好き。恋してる。家族だ。場違い。すれ違い。
“知る”っていうのと、“感じる”っていうのは別のことだと僕は思う。
“説明”ってやつには、理論や根拠や条件だとかが必要なのと同じように、正確に全部を理解しようとすればするほど、必要なことがどんどん増えてく。いろんなものを求めはじめる。
だけど、“感じる”ってものには、それがない。
“ふと”とか“なんか”ってそれが、それだけでヘンに納得できたり、それ以上を求めないでも良かったり。
だから赤ちゃんだとか子供だとか、言葉なんて必要なく、素直で無邪気で愛の象徴みたいに感じるじゃないかと思う。
そう思えて仕方ない。
そしてそれを、改めて痛感すること。
文字どおりの、痛いくらいに。
笑ったり、怒ったり。
ただそれを見ただけで、それがわかった気になれるんだ。
ほんの少しの痛みなら、僕はそれを刻みこもう。
僕にはそれが一番で、すごくすごく大切なんだ。
感じたことには素直でいたい。
“感じる”ことが、心の対話だ。
- December 15, 2004 6:57 AM
- [ ゲロ古 ]