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北竜町にて

 俺様の『48』……
 『俺様の24』は、また今度物語れそうなおもしろい1日を過ごしたときにでも。
 事は、リアルタイムで起きている……




“墓まいらぬ?”
“ただいま佐川急便の集荷待ち”
 そんなメールをウメちゃんとやり取りしながら、俺様は朝っぱらから『24』を5、6話ぶっ通しで観てた。
 危うくそれがそのまま俺様の『24』になるとこだった。
「佐川さん、来たよ?」
 そしてウメちゃんが玄関から顔をだした。
 “午前中”って言ってたのに、見事そのときすでに15時半ごろ。
「あ、すいませんすいません……」
 それでも丁重に腰の低い対応をする俺様は、ホント口ばっかりな“俺様”也。




「おまえ、ホントいい加減にしろよ?」
「なに言ってるのよ、それはヒットでしょ?」
「違うだろ? おまえが砂糖をちゃんといつものところに入れておかないからだろ? おれのせいにすんなよ」
「そんなのちゃんと確かめれば済むことじゃない。自分のこと棚に上げて、なんでもかんでもわたしのせいにしないでよ」
「自分のこと棚に上げてるのはおまえだろう」
 営業3課、川崎ビル5F、中央区。
 ほんの3ヶ月前に同棲したばかりの辻本仁志と山本早苗の二人。
 ついに会議室へ向かう途中の廊下で立ち止まっての口論になってしまっていた。
「だって統一したいからって入れ物同じのにしたのヒットのほうじゃない」
「それとこれとは話が別だろ?」
「まあまあ、ノロケ喧嘩は会議のあとでも遅くないでしょ? 今日ラストの会議なんだし」
「あ、美穂子……」
「………」
「それとも、早苗が週末のショッピングに辻本くん連れ出すための口実作りかな?」
「違うって。ちょっとわたしがどっちか間違っただけなのに……」
「そんなに露骨に“わたしたち付き合ってます!!”みたいな感じだから辻本くん、異動させられちゃうんだよ? 紙見た?」
「………」
「ううん、まだ。どこに貼ってあるの?」
「なかの掲示板」
「そう。じゃあ会議終わったら見てみよっと」
「まあ、今はそれはいいとして。じゃあ、うちのと色違いのはずだから、それと1個ずつ交換する?」
「え? いいの?」
「おまえ……」
「うん、いいよぉ」
「ありがとう」
「………」
「え? でも、なんでうちのと色違いって知ってる……」
「さっ、会議だよ? 早く行った行った」
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 かるくシャワーを浴びたあと、vodafoneにシャープの新機種の偵察へ。
 なんとも絶妙……その意味するところは、そのように俺様の趣向を巧みなほど避けてあるってこと。
 俺様仕様のアンテナは、もちろんない。本体を折りたたむ外側の隅についてるアンテナが、“俺様仕様”……
 実例で挙げれば、使ったことはないけど“KOTO by TOSHIBA”也……さらに言えば、ペロンペロンで細いアンテナがベスト。アンテナならDoCoMoの古いやつがベスト。
 とりあえず、V903SHは、つや消しにしてほしかった。
 あと、もう1つ気になったのがV703SH。
 これは間違いなく『24』の影響だ。
 いつか「CTU アルメイダ」って出てやろう……“ジャック”じゃないところがミソ。
 悪くない。
 けど、そこまで良くもない。
 でも、V903SHは、詳しい値段は威信に関わりそうだから公開できないけど、安いから買っておいてもいい機種ではある。703もまた然り。
 しかしvodafoneの3G、いい加減、あの待受に出る帯っぽいの消したほうがいいと思う。便利でもなんでもない。ただガサいだけ。
 今回の903SHでは消えてるけど、そこに透過でもアイコンをつけたら一緒なのだよ。
 vodafoneさんよ、そんなに売れないんならいっそオーダーメイドしてくれ。




 208号室、オリオンA、東区。
 もうかれこれ30分以上つづく沈黙のなか、門倉知恵がおもむろに顔を横に向けて口を開いた。その声は媚びているように甘えていた。
「ねえ」
「………」
「ねえ」
「……なに? どうしたの? 時間マズい?」
「ううん、逆。もう終わり? まだ時間だいじょうぶなんだけど……」
「え? もっと? いいの?」
「うん、もっと」
「じゃあ、いい?」
「いいよ」
「よし………」
「あ、でもちょっと待って?」
「どうしたの?」
「その前に、シャワー浴びてきてもいい?」
「あ、いいよ」
「じゃあ、ちょっと待っててね? すぐ戻ってくるから」
「わかった」
 一瞬頬に細い口唇の感触を感じた田中和男はふたたび煙草に火をつけた。
 恥じらいもなく素っ裸でベッドを抜け出た知恵は、そのままこちらを振り返った。
「ねえ」
「ん?」
「またちゃんと服着てきたほうがいい?」
 和男は黙って微笑み、吸い込んだ煙を吐き出しながら、うなずくとも横に振ったとも取れるように首を傾げた。
 知恵も微笑んだ。
 バスルームのドアが閉められるのとほぼ同時に、シャワーの音が聞こえてきた。
 ふとベッドから少し離れた窓際のテーブルの上にある知恵の携帯電話が目に止まった。その隣には開かれたままの知恵の手帳もあった。
 和男はチラリと知恵の鼻歌のほうへと視線を走らせた。
 煙草を指のあいだに挟めてから和男は足にだけかかっていた布団を払いのけ、立ち上がった。ゆっくりとそちらへ歩み寄っていった。
 シャワーの激しい水の音を聞きながら一歩ずつ歩を進めるたびに、部屋に入ってからのこれまでとこれからが入り乱れた。
 そこまでたどり着いたとき、鏡に反射した自分の姿を見て、知恵の若々しい鼻声が聴こえなくなってしまった。さすがに50を超えたその肢体を褒める気にはなれなかった。
 が、ふたたび知恵の鼻歌と石鹸を取るような物音を聞いたときにはすでに、20代の若さを和男も取り戻していた。
 そしてテーブルの上にあるストラップだらけの知恵の携帯電話を手に取った。
 開かれたままの手帳の内容も視界の隅に映った。
 “8月12日 たったいまャット14歳になったなりョ♪”
 和男は思わず携帯電話を静かにテーブルの上に戻していた。
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「ってか、場所憶えてる??」
「あぁ~……だいたい? おおまかに」
「墓の場所も??」
「うん、たぶん」
「Oh, Nice!!」
 vodafoneショップを辞した僕らは、夜の道を我が一族の墓へ向かって走っていた。
「あ、そういえば、稚内どうする?」
「あ、稚内ねぇ~……いいよ?? 行く??」
「いいよぉ~?」
「……あぁ~、でもどうかなぁ~。休み明日までだしなぁ~。どうすっかなぁ~」
「今のこのテンションなら日帰りでも行けるよぉ~?」
「マぁ~ジでぇ~?? あぁ~、でもどうかなぁ~……でもまあ、行っとくか」
「おうよ。じゃあ、先に墓まいって、それから1回うちに帰ってシャワー浴びてから出発ということで」
「おうよ」
 果てしなく続く夜の扉は、害門&蛾ぁ~ファックルです。
「あ、でも、それだったら先に1回うち帰ってシャワー浴びてからのほうがいいんでないの??」
「おう、なるほど」
「なんだったら墓参りも明日の帰りのついででもいいし。この時間から行ったら、マジで肝試しになるし」
 夜の帳は、蛾も多けりゃ、我の強い魂も飛んでそうな感じがする。
「いや、明日の帰りだったらたぶん、もう今のテンションじゃないような……」
「まあね。帰りはテンション低いからなぁ~。疲れてるし」
「じゃあ、いったん帰りまぁ~す」
「はぁ~い」




 会議が終わると、すぐに上杉美穂子は親しげに談笑しながら澤田部長と廊下の反対側へと消えてしまった。早苗は仁志と並んで営業3課のオフィスへ戻った。
「じゃあ、また帰りね?」
「あ、ああ」
 仁志は自分のデスクほうへ気だるそうに歩いて行った。途中、パソコンで打ち込みをしている同僚の女性のデスクに、ふた言三言の言葉とファイルを置いた。
 彼を見送った早苗は掲示板へと向かい、異動の張り紙を見た。
 やはり美穂子の言っていたとおり、そこには仁志の名前があった。
 振り返ると、仁志もデスクの整理をして帰り支度を始めていた。それを確認した早苗はオフィスを出て更衣室へと向かった。




「あ、オークションのメール書かねぇ~と……」
 と車のドアを閉めた僕は、家の玄関のノブに鍵を差し込んだ。
 先に入っていったウメちゃんがリモコンを操作して居間の電気をつける。テーブルの上に鍵の束と携帯電話やらを置いた。
 僕はそそくさと2階の自室へと上がり、ポケットから財布などを出すより先にパソコンの電源を入れた。と同時に内部のファンがうなりを上げた。




 更衣室の扉を開けると、数人の女性社員が着替えをしていた。
 早苗も自分のロッカーの前に立つと、着替えを始めた。
 ちょっと離れたところで制服のブラウスを脱いだ女性社員の胸が目に入り、つい自分の胸と見比べてしまった。
「だいじょぶだって」
 美穂子の声がして、隣のロッカーの扉が開いた。
「お疲れぇ~」
「お疲れぇ~」
「そうかなぁ? やっぱりもうちょっと大きくなりたいなあと思って、最近」
「なんで? 肩凝るよ? 胸の下に汗かくし」
「ああ、わたしも言ってみたい」
「だって辻本くんに揉まれてんでしょ~? わたしは揉んでくれる相手がほしい」
「ええ~、最近なんて全然だよ? 前は週に4、5回はしてたのに」
「少なくともでしょ?」
「まあねぇ~。それが今じゃ……」
 ロッカーの仕切り棚に置いてあった携帯電話を開いた。メールが1件きていた。
「今じゃ? “ソロ”ばっかり?」
「“活動停止”」
「ホントに?」
「うん、全然。こないだも“疲れてるから”って先に寝ちゃったし」
「へぇ~、辻本くんて、そういうふうには見えないけどね」
「そう? ハッスルしそうに見える?」
「うん。なんとなくうまそうかなぁ~って……」
「うん、たしかにうまいんだけどねぇ~」
 とまんざらでもないように笑みを見せながら着替えを済ませ、バッグを取り出した早苗はロッカーの扉を閉じた。
「それじゃ、お先ぃ~」
「あら? また今日も辻本くんとデートかな?」
「まあねぇ~」
「うらやましい限りだねぇ~、ホント。じゃ、お疲れぇ~」
「お疲れぇ~」
 更衣室を出た早苗はエレベーターに乗り込むとすぐに携帯電話を開き、届いていたメールを確認した。
 そのメールは更衣室に入るほんの3分ほど前に受信したらしかった。さっき別れてから全然経っていない。
 早苗は自分の頬が緩んでいくのを感じていた。
“会いたい。それにちょっと今うまい店の情報ゲット!どう?”




 知恵は少し長めに浴びたシャワーの湯を止めた。仕切りのカーテンを開け、バスタブの縁をまたいだ。
 出るときにカーテンが触れて冷たかった。右の尻を撫でながら少し高い位置に設えられているスチール棚から下のバスタオルを静かに抜き取ろうとしたが、落ちそうになった上のバスタオルをバサバサやって振り払った。
 知恵は体を拭きながら鏡の前に立った。
 首にキスマークがあった。胸には2つもついていた。へその横にも1つあった。
 その赤い痕を指でゆっくりと1つ1つなぞっていった。視線もそれを追っていた。
 顔を上げると、鏡の向こうで自分が幸せそうに笑っていた。
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 まだメールを書いてる途中でもうウメちゃんが階段を上がってきて、自室のパソコンの前で椅子に腰を下ろした。
「ちょっと待って」
「おれもちょっと待って」
「イエップ」
 それからマッハで最後までメールを書き終え、最後に文章を確認してからそのメールを送信した僕は、もう一度メールの送受信ボタンを押した。
 なにもなかった……と思ふ。
 終了するかしないかぐらいでもうメールソフトを終了したから。めったにメールなんてこないし。来るのは懸賞とかソフト買ったとこのメールマガジンとかばっかだね。
 まあいいさ。
「なんか持ってくもんある?」
 旅に出る前、毎度のことでウメちゃんに尋ねてみる。
 ウメちゃんは部屋のなかでブラブラしていた。
「う~ん……パンツとかカメラとか?」
「え? 着替え必要?」
「いや、明日の朝着替えたいとかあったら」
「あぁ~。じゃあ持ってくか」
 下に行って洗濯物干しからタンクトップとパンツを取った。部屋に戻ってクローゼットの奥から茶色いリュックを出してそれらを入れ、デジカメもそこに入れた。
「えぇ~、あとは……」
 CDラックを見て、クローゼットを閉め、リュックのジッパーを上げた。
「オッケェ~でぇ~す」
「ちょっと待って」
「じゃあ、先行ってるよ?」
「おうよ」
 ウメちゃんが先に行った。
 ちょっと遅れて階段を下りた僕はとりあえずそのまま居間へ入り、出発前に冷蔵庫から出した牛乳をひと口飲んだ。
「おぉ~……うし」
 牛乳のパックをまた冷蔵庫に戻す。
 居間のドアへと向かった。
「あ……」
 ドアの前で滑らかにカーブして、洗面台から歯ブラシと歯磨き粉を手に取った。
「あ……」
 袋がねぇ~。“三角コーナーいらず”じゃ役立たないし。水切りパックも使えねぇ~し。
「まあいいや。なんか買うべ」
 リュックにそのまま入れて家を出た。
 車に乗り込んだ僕は荷物を後部座席に置いた。
「部屋の掛け布団、一応持ってきた」
「ああ、寝ること忘れてた」
「はいオッケェ~でぇ~す」
「じゃ、行きますか」
「Oh, Yeah」
 そして車は静かに動きだした。




 体を拭くのもそこでやめ、知恵は勢いよくバスルームの扉を開けた。視線はすぐにベッドを目指した。
 が、そこにはだれもいなかった。
 目だけが動いた。
 部屋にはだれもいなかった。
 足がゆっくりと動きはじめた。こんなにも狭い部屋のなかで行く宛もなく彷徨っているようだった。
 いや、自分しかいなくなっていた。
 それを認識して初めて、知恵はシャワーあがりの寒さに気づいた。体が小刻みに震えていた。
 窓辺のテーブルまで行くと、自分の携帯電話の下に1万円札が4枚置いてあった。
 鏡に映っていた自分の姿が急に恥ずかしくなった。




「しっかしなんもねぇ~なぁ~」
 窓のむこうを流れていくただの闇夜を眺めながら僕がつぶやいた。田舎町を走ってると必ず言う。
 “とうべつ”っていうデッカいふくろうの看板が見えると、バカの1つ覚えのように“あ、ばあちゃんち近ぇ”もお決まりだ。たまぁ~にウメちゃんが俺様の先を越すこともある。
「あれ? 看板ねぇ~」
「マジで? なんの?」
「……あれぇ?」
 ウメちゃんが蛾と夜の光景しかないフロントガラスを覗きこんでいた。
「あ、あったあった。これこれ」
「ああ、あったね。ここかぁ~」
 車はさらに深い闇夜へ向かって右折した。




 会社を出て左折した道を足早に歩いていた早苗の背後で、突然クラクションが2度鳴った。
 少し驚いたように立ち止まって振り返ると、ハザードを点滅させた車が1台停まっていた。
 ゆっくりと窓が下がっていった。
 とそのとき、バイブレーションの振動がバッグをかけている腕に伝わってきた。携帯電話を“サイレント・モード”に設定しなおすのを忘れていたことに気づいた。
 メールだった。一応車に背を向けたが、バッグから携帯電話を取り出すまでもなかった。
 それを無視して早苗はまた車のほうへ振り返った。
「あ、部長……」




 知恵はその場に座り込んでいた。
 ベッドからたぐり寄せたシーツを体に巻き、震える自分の体を抱きしめながら、あふれくる涙を息を殺して堪えていた。
 しかし、ついに我慢しきれなくなった1粒が頬を伝ってこぼれ落ちた。
 エアコンがきいていてすぐにそれも乾いた。
 シーツのなかでキスマークを探すように手を動かすと、またさらに涙が流れた。
 4枚の1万円札が揺れていた。




 家路を急いでいた和男は、赤信号で急ブレーキを踏んだ。
 まるで夢のように思えた。
 ホテルを出た和男は、しばらくのあいだ駐車場の車のなかで動けなかった。
 脳裏を知恵の肉体がよぎった。
 “14歳”
 あのすでに大人びた容姿とその感触を思いだすたびに、全身が熱を帯びた。しかし、次の瞬間には冷たいものを感じた。
 口のなかはずっとカラカラだった。
 ふと思いだして、和男はおもむろにスーツの内ポケットを探った。次にズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 後部座席を振り返ろうとしたところで、後続車にクラクションを鳴らされた。
 和男は慌てて車を発進させた。無意識のうちにルームミラーを睨みつけて舌打ちしていた。




「あ、やっと動いた……そういえば、今日ホントにだいじょぶだったの?」
 運転席の澤田部長が訊いてきた。
 早苗は顔をそちらに向けた。
「なんか1回断られたからさ」
「ええ、だいじょぶです。ごめんなさい」
「ホントは辻本くんとなんか約束あったんじゃない?」
「あ、実はそうだったんですけど……でもやっぱり部長と会いたくなっちゃって」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ~」
「って、部長こそだいじょうぶなんですか? 奥さんとか心配してるんじゃないんですか?」
「いや、まあ、うん。実はさっき電話あったんだけどね。だいじょうぶだよ」
「そうですか、よかった」
 早苗は嬉しそうにそう答えると、バッグから携帯電話を取り出した。会社の玄関を出たところで届いた仁志からのメールを開いた。
“ごめん遅れるから先帰ってて”
 あのときは1度念のために電話をかけてみたが、彼は出なかった。
“なんで出ないの?わかった。もういいよ。じゃあ帰るから。でもできるだけ早く帰ってきてね?”
 早苗はそう返信して携帯電話をふたたびバッグのなかにしまった。“サイレント・モード”に設定するのも忘れなかった。
「じゃあ今日は、部長とどれぐらい一緒にいれますか?」
「実はさっき電話で、今日は会社に泊まるって言ったんだけど……だいじょうぶかなぁ?」
「あ、ごめんなさい。それはちょっとムリです」
「そっか。それはさすがに仕方ないね」
 赤信号で部長は静かに車を停めた。
「そういえば、そろそろその“部長”っていうの二人でいるときはやめてくれないかなぁ?」
「じゃあ、なんて呼んだらいいんですか?」
「いや、それは任せるよ。仕事場と同じ呼び方以外ならなんでもいいから」
「じゃあ……思い切って“正太郎さん”って呼んじゃおっかなあ?」
「ああ、全然構わないよ」
「じゃあ、わたしのこと、たまに“おまえ”って言ってくれますか?」
「え?」
「なんか嬉しいんです、好きな人からそう呼ばれると……」
「うん、わかった」
「ありがとうございます」
 このとき初めてわたしから、頬にキスをした。
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「あっちだっけ?」
 墓地が見え、駐車場の入口で迷っていた。
「うん、たしかあっち」
「あ、ここだここだ」
「おう、ここだわ」
 車が駐車場のなかへと進んでいく。
「夏だし、酒ばっかじゃ逆に喉渇くだろうから、ポカリスエットでもかけてやっかな。もう残り少ないし」
 思いついたことを僕は一人つぶやいていた。
「でもさすがにポカリはバチ当たりかなぁ~」
 車が停まった。
「あ、懐中電灯、懐中電灯と……」
「おう、懐中電灯」
 僕は後部座席を振り返った。
「やっぱポカリかけてやろ」
「持ってくの?」
「うん」
「マジで?」
「おうよ」
 車から出ると、墓場は本当に墓以外なにもなかった。なにも見えない。若干キモい。
「こっちだっけ?」
「うん、たしかね」
 無音より気持ち悪いのが、砂利を踏みしめたときに鳴る音だ。
 なんか人間の歯を踏んでるような気になってくる。
「この懐中電灯明るいな。さすがLED」
 墓石を照らすたびに、そこが明るくなる分、その周囲はより深い闇へ呑み込まれたように見える。
「たぶんこっちだったような気ぃしたんだけどなぁ~……」
「うん~……」
「いきなり“松田家”とか書いてないとかなしね」
「いやぁ~、たしか書いてたと思ったんだけど……」




「なんか前の車、さっきからフラフラしてません?」
「うん、酔ってるのかなぁ?」
「危ないなぁ~。早くどっかで曲がってくれませんかね」
「これはちょっと避けたほうがいいな」
「そうで……」
 と早苗が言い終わらないうちに、突然前の車がウィンカーも出さず左車線からUターンした。
 澤田正太郎はとっさにそれをかわし、クラクションを押し込んだ。危うく歩道に乗り上げるところだった。
 隣を見ると、早苗は驚いて声も出ないらしい。
「さては、おまえの言葉が聞こえたのかな?」
 実際には自分もそれぐらい驚いていたが、男のプライドなのか、それは出さなかった。
「返事ぐらいしてほしかったですけどね」
 早苗は深呼吸していた。
「あ、でも、今“おまえ”って言ってくれましたね」
「うん、ちょっと言ってみた。なんか照れくさいなあ」
「嬉しいです」
「さて、じゃあ、うまいもんでも食って、ゆっくりしよう」
「はい」




 とりあえず同じラブホテルの同じ駐車場にふたたび入ってはみたものの、和男はしばし運転席でためらった。
 まだ知恵ちゃんがいたらどうする?
 コンビニに行っていたとでも言って、素知らぬ顔で入っていけばいいか?
 もしかしたら、けなげにまだ裸で待っててくれてるかもしれない。そしたらもう1度抱けるかもしれない。
 別れるなら、そのあとで別れてもいいじゃないか。
 和男は車を降りると、駐車場から部屋へと入る扉を静かに開いた。
 たぶんゆうに5分はその場に立ち尽くしていた。
 ゆっくりと歩きだし、部屋へと入る扉の前に着いた。それだけなのにひどく疲れた。
 視線を落とす。
 言葉も出なかった。
 L字型になったドアノブのにぎりに、和男の結婚指輪がはめられていた。
 静かにそれを抜き取り、そこに細く結ばれていた紙切れを解いて開いてみた。
“ごめんね”
 それは、和男が部屋を出る間際に、知恵の手帳の適当なページを開いて書いたメモそのものだった。
 その紙面にすでに円くできていた染みの上に、今また1つ染みが落ちた。
 それはもっと大きな跡を残すだろう。
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「あ、あったあった。“松田家”」
 ウメちゃんの持つ懐中電灯がその墓を照らしていた。
「どれ?」
「それ」
「どこどこ」
「ほら、これ」
「おう、“松田家”」
 刺さっていた2本のろうそくの紐の先が黒く焦げていた。
「じゃ、とりあえずポカリ……たぁ~んとお飲み? やっぱバチ当たりかなぁ~?」
 ウメちゃんは笑っていた。
「よし、じゃあ一応はろうそくに火ぃつけとくか……」
 ジッポで火をつけようとしたら、なにも言ってないのにウメちゃんが両手を添えてくれた。
 いらっしゃいませ、ご主人様。
「あ、消えた」
 ウメちゃんが手をどけると、すぐに火が消えた。
 本日、強風也。
「ま、いいさ。煙草あるし」
 今度は煙草に火をつける。
「すぐ差すのももったいないから」
「おいおい」
「じゃあさ。これ、どうせだったらすぐ火ぃ消えるんだし、こっち側、煙草でいいんじゃねぇ~の?」
「いや、それはさすがに……」
「これでよし」
「バチ当たり」
「いいんだって。松田家のなかにも、おれみたいなの1人ぐらいいたほうがいいんだって。こういうデキの悪い子ほどかわいいって言うべ」
「自分で言うな」
「いよっし。では」
「あれ? 松田家って手ぇたたくんだっけ?」
「おうよ」
 2回手をたたいて手を合わせる。
「……おれに金くれ」
 自分で笑ってしまった。
 毎度のことながら、なぜか墓参りに来ると、お願いごとをしてしまう。ネタでもなんでもない。習慣みたいなもんだな。
「んじゃ、とりあえず恋人できますように……って、だからなんでお願いしてんだよ、おれ。安らかに眠れ……ジジイ」
 目を開ける。安らかに眠ってるのか、墓はいつもと変わらない。
「よしオッケェ~!!」




 もうかれこれ、どれぐらいこうしていただろう?
 仁志は、会議室の床で大の字になって天井を見上げていた。
 早く家に帰りたい。
 残業もいい加減うんざりだ。もう疲れた。
 異動のことを考えた。
 早苗と離れてしまう。
 あいつが一緒に来るとは思えない。前に1度、ただプロポーズしたときでさえ、“わたしも働く”と言ってきかなかった。
 それが今回異動になったぐらいで、一緒に来て専業主婦になってくれるとは思えなかった。あっちで仕事を見つけて働くこともできるんだろうが、それはあいつが“うん”と言わない気がした。
 ここからはかなりの距離がある。会うと言っても、そう簡単に会える距離じゃない。
 あいつに言わなかったのは、異動になって距離ができたら、そのまま別れてしまうんじゃないかと、今の関係にいまひとつ自信が持てなかったからだ。
 いや、むしろこのままの関係のほうがうまくいくのかもしれないとも思う。
 異動を知った今、あいつは遠距離恋愛でもだいじょうぶと、きっとおれを気遣って言ってくれるだろう。
 これは昇進のチャンスだ。
 異動先の店舗は小さいといえど、そこの支店長を任される。給料も一気に上がるはずだ。
 たぶんあいつが自分も働くと言ったのは、おれの安月給を知ってのことだろう。そんなんで結婚なんて想像するのもイヤなのだろう。
 けっこう金のかかる女だ。
 家賃やなんかは今のうちからということで、おれが払っている。
 そのせいか、欲しいものをねだりはしないが、自分の給料でけっこういい買い物をしている。
 一応早苗とは、結婚を考えている。
「……ねえ、さっきからなに考えてるのぉ? ヒットぉ」
 舐めるようなその声とともに、美穂子が視界のなかへと下腹部から這い上がってきた。
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「あ、ちょっと」
「あ?」
「ゴミ」
 ゴミ箱っぽいところに歩み寄っていった。
「あ、でも、歯磨きの水にこれにくんでこうかな。いや、やっぱり墓場の水持ってくのはなんかヤダな。やぁ~めた」
「“ごみのお持ち帰りにご協力ください”」
「あ、ホントだ」
 その場を離れ、僕らはおとなしく車に向かった。
「あれなに?」
「なに?」
「あれ。あの山になってるやつ」
「なんかの記念じゃね?」
「ゴミの山っぽいけど」
「ああ、その前のやつね? ホントだ。ちゃんと持って帰れやぁ~!! まあ、俺様もさっき捨てようとしたけどさぁ~」
 車に到着。
 そこで振り返ってひと言。
「おまえらみんなでファックしてな!!」
「小チンピラが」
 今宵の僕は、とりあえず中指を立ててみたり毒づいてみたりしていた。なぜだかそんな“小チンピラ”や“小ヤンキー”が流行っているようだった。
「いや、さすがにこれはバチ当たりだな。みんな安らかに眠ってな!! ……よし」
 車に滑り込んだ。
 ウメちゃんが煙草に火をつけると、ついに稚内の宗谷丘陵へ向けて発進した。
「あ、そうだ」
「ん?」
「隣の小さいお墓参るの忘れてた」
「え? そんなのあったっけ?」
「うん。あるんだわ、それが」
「戻る?」
「いや、いいや」
「いいの?」
「うん。デッカいほう参ったし」
「それじゃ、行きますかぁ~」
「おうよ!!」




 もう食事も終わりになろうとしていたとき、突然正太郎のスーツの内ポケットで携帯電話が振動した。一瞬迷ったが、おもむろに立ち上がった。
「あ、ちょっとごめん」
 早苗は微笑みながらうなずいた。
 正太郎は席を離れると、トイレのそばまで歩いて行って通話ボタンを押した。
「もしもし? どうした?」
「あ、まだお仕事中? ごめんなさい」
「いや、だいじょうぶだけど」
「なんか正樹が熱出しちゃったみたいで……これから病院に連れて行こうと思うんだけど、一応報告にと思って」
「だいじょうぶなのか?」
「ええ。たぶんだいじょうぶだと思うんだけど。一応だから」
「そうか……じゃあ、やっぱりおれもなんとか早く切りあげて帰るよ」
「え? だいじょうぶなの?」
「ああ。病院はいつものところでいいのか?」
「ええ。でもムリはしないでね? 仕事なんだし」
「わかってる。できるだけ早く行くから」
「ええ。じゃあ」
「じゃ」
 通話を終えると、正太郎は顔に微笑みをたたえてから席へ戻った。
「だいじょうぶですか? なにかあったんですか?」
「ああ、それが……今、正樹が熱をだしたって。それで病院に連れて行くって」
「え? 正樹くん、だいじょうぶなんですか? それじゃあ、すぐ行ってあげてください」
「ああ、申し訳ないけど、そうさせてもらうよ。自分から誘っておきながら、ホント申し訳ない」
「いえ。仕方ないですよ」
「申し訳ない」
「いえ、ホントに。じゃあ、もう行きましょう」
「あ、ああ」
 正太郎は早苗がバッグを持つのを確認してから、テーブルを離れた。
「あ、ちょっと」
「はい?」
「もしかして、本当は今日、迷惑だったのかなぁ?」
 早苗はすぐに首を横に振った。
「わたし、正太郎のそういうところが好きなの」
 正太郎の表情は自然と綻んでいた。そしてさりげなく早苗の手を取り、店の出口へと向かった。




 和男は、結婚指輪を指先に挟んでもてあそびながら運転していた。
 なぜかすぐにはめる気にはなれなかった。メモ帳も捨てられなかった。
 意を決してドアを開け、部屋のなかを確認してみたが、そこにはもうだれもいなかった。シーツや椅子、テーブルの上もきれいに整頓されていた。
 ドアノブにこれがあったということは、掃除もまだ来ていないはずだった。
 車内はずっと無音だった。
 なんでもよかった。
 急に落ち着かなくなった和男は、ステレオのスイッチを入れた。
 が、それだけは今聴きたくなかった。
 知恵が持参してきた彼女のMDが流れた。もうイヤというほど聴いていた。知恵との話題にでもなればと、なんとか喜ばせようと入っている曲をすべて憶えた。
 カラオケでそれを披露したとき、彼女は嬉しそうに自分も歌いながら手拍子をし、歌い終わったときには全曲盛大な拍手をしてくれた。
 もしかしたら、わたしにお父さんの影を重ねていたのかもしれない。
 和男は指輪をズボンのポケットに突っ込むと、車をUターンさせた。
 でも今となってはそれでもいい。そんなことはどうでもいいのだ。




 いそいそと車に乗り込んだ正太郎に、窓が下がるのを待って早苗は言った。
「あ、わたし、もうここの近くなんで……もうだいじょうぶですから、早く行ってあげてください」
「え? でも……」
「本当にだいじょうぶですから」
「いや、でもちゃんと送るよ。もう遅いし」
「だいじょうぶ。早く行ってあげて?」
「そうかい? じゃあこれ……」
 早苗は笑みを浮かべて首を横に振った。
「いや、でもこれぐらいはさせてくれ」
「じゃあ、これ受け取ったら、素直に行ってくれますか?」
「ああ。だからこれ」
 早苗は窓の向こうから差し出された1万円札を受け取ったが、それをバッグに入れることはしなかった。
「じゃあ、本当に申し訳ない。気をつけてね。また電話するから」
「はい。じゃあまた」
「じゃ」
 正太郎はかるく手を上げ、クラクションを2回鳴らすと、窓は閉めずに車を発進させた。
 それを見えなくなるまで見送ってから、早苗はバッグから携帯電話を取りだした。
 さっき正太郎が席を立ったときに届いた仁志からのメールを開いた。
“もうすぐ帰れそうだから”
 すぐに返事を打って送信した。
“うん、わかった。じゃあ、このまま寝ないで待ってるね♪”
 それから早苗は電話を閉じることなく、タクシーを呼んだ。




「あぁ~、なんか連れてきたかなぁ~??」
 僕は左手で右肩を押さえてかるく揉んでみた。
「なんか肩重てぇ~」
 ウメちゃんはくわえ煙草のまま笑った。
「あのちっちゃいほう参んなかったからかなぁ~」
「ああ、水子といえばデッカいのいるからねぇ~」
「たぶんほかにも4、5人いるんじゃねぇ~の?? ああこれ、絶対いるわ。絶対連れてきてる」
 僕は齋藤教授の“肩甲骨ぐるぐる体操”を実践してみた。
「あ……」
「あ?」
「……なんか寝てもいないのに寝違えたかも」
「なんでよ」




 息を切らせながらちょうど仁志が携帯電話を手に取ったとき、それが鳴った。
 早苗だ。着信音を変えてあるからすぐにわかる。
“うん、わかった。じゃあ、このまま寝ないで待ってるね♪”
 さっき送ったメールの返事だった。
「あ、わたしの知らないあいだに帰るってメールしたの?」
 気づくと背中に乗っていた美穂子が顔の横から覗いていた。
「悪いけど、帰さないよ?」
「おまえなぁ……やめろって」
 どうしてもこいつと戯れていると、いつの間にか笑ってしまう。
「離れろ」
「ヤダ」
「離れろ」
「ヤぁ~ダ」
「離れろって」
「ヤダってばぁ」
「んなこと言っても、おれは帰ると決めたら帰るぞ」
 仁志は強引に立ち上がった。美穂子が背中から滑り落ちたが、まるで雑誌を読むような格好でこちらを見上げていた。
「あぁ~あぁ~、なんだかんだ言ってそんななのにぃ~」
「うるせえ」
 入口まで行き、1つ1つ脱ぎ捨てられた服を拾いながら、それらを身につけていった。
「ほら」
 一緒に拾い集めた美穂子の服を彼女に向かって放った。
「早く着ろ」
「ヤダ」
 駄々をこねる子供のような声音で答えると、美穂子はその場にすくっと立ち上がった。弾力のある胸が波打った。
 どうしても拭いきれない欲望を振り払うように言った。
「いいから早く着てくれ」
「じゃあ、着せて?」
「30過ぎのいい歳こいた女が駄々こねてんじゃねぇ~よ。かわいくもなんともねえから」
「30だもん。まだ過ぎてないもぉ~ん」
「やめろ、汚え。若ぶってんじゃねぇ~よ」
「わたしよりたかだか3つぐらい若いっていうだけじゃん」
「4つだよ」
 ベルトを締め、ジャケットを羽織った。
「おまえ、泊まってくのか?」
「だぁ~かぁ~らぁ~、着せて?」
 美穂子は全裸で両腕を広げてみせた。
「だぁ~かぁ~らぁ~……」
「じゃ~ぁ~、バラすよ? いいの?」
「………わぁ~ったよ。着せたら帰るぞ?」
「うんうんうんうん」
 美穂子は嬉しそうに何度もうなずいた。
「じゃあ、まずはパンツか? ブラか?」
「それ」
「ほら、足」
「はぁ~い」
「動くな」
「ヤダ」
 突然そう美穂子はキャーキャー叫びながら会議室を走りまわった。
 その姿を見つめながら、また自然と笑っている仁志がいた。




 和男は、ホテルから近い道に入っては歩くような速度で進んでいった。脇道もすべて見た。
 知恵はどこにもいなかった。
 置いていった4万円でタクシーでも拾って帰ったんだろうか?
 これ以上探してもムダに思えてきた。
 もしかしたら知恵のほうこそ、コンビニにでも行ってたのかもしれない。
 和男はもう1度ホテルへ戻ってみることにした。停めかけた車を、ふたたび発進させた。




 病院に到着した正太郎は、駐車場で結婚指輪をはめるとすぐに、ナースステーションに取りついた。正樹のことを聞くと、そこへ向かって走った。
「あ……」
 病室に入ると、点滴を打たれている正樹の手をにぎる妻がいた。
 隣へ寄った。
「淑子、正樹はだいじょうぶなのか?」
「……ええ、ただの風邪だって。あなたこそだいじょうぶなの?」
「ああ。事情を説明したら帰ってもいいって」
 すらすらと嘘が口をついて出てきた。
「で、正樹は退院できるのか?」
「明日の朝かな。一応今日はここに入院させてもらっていこうかなと思って」
「そうか」
 しばし沈黙があった。
「……じゃあ、先に帰って休んでて? きっと仕事で疲れてるでしょ?」
「ん? あ、ああ。そうするよ。じゃあ、あとは頼む」
「はい」




「よし、もうOKだろ?」
 結局最後は美穂子が自分でスーツを着た。あまりに雑に着せようとするからだそうだ。
「ほら、早く帰るぞ?」
「わかったってば」
 テイクアウトで食べたゴミを持って会議室を出ると、オフィスの電気を消し、長い廊下を歩いた。
 エレベーターに乗り込んだと同時に、美穂子が腕を組んできた。
「いいじゃん。もうだれもいないんだし」
「はいはい」
 1階はすぐに到着した。駐車場に抜けられる裏口へ向かった。
「離れろ」
「はいはい」
「もう出るんだから早く離れろって」
「って、一緒に出ていいの? マズいんじゃないの?」
「もうだれもいないんだし、だいじょぶだろ?」
「ほら、あそこに警備員さんいるよ?」
「あ」
 美穂子が数歩分うしろに離れた。
 駐車場に出ると、蒸し暑い夜気にさらされ、全身がじっとりと湿った。
 お互いに離れた位置に車を停めてある。
「じゃあ」
「うん。じゃあ、また明日ね?」
「あそうだ」
「ん? なに?」
「おまえ、そういえば、もう2度と早苗ににおわすようなこと言うなよ?」
「はいはい、わかってるって。そんなバカ扱いしないでよね。わたしだって困るんだし」
「おまえ、今度またなんか余計なこと言ったら部長にチクるからな?」
「はいはい。そんなことしたら二人ともクビだけどねぇ~……」
 美穂子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でも、わたしは全然それでもいいんだよ?」
「おれはヤダ」
「はいはい、じゃあね。お疲れさま」
「はい、お疲れぇ~」
 自分の車に乗り込むと、仁志はすぐ早苗にメールを送った。
“ごめん遅くなって。今から帰る”
 すぐに返事がきた。
“かるいものだけど、ご飯作ったけど、もう食べちゃった?”
“いやまだ”
“じゃあ、あっためて待ってるね♪”
“すぐ帰りまーす”
“はぁ~い、待ってまぁ~す♪”
 57...58...59...




 やはりホテルにはいなかった。
 掃除もすでに来たらしく、受付の人にも聞いてみたが、部屋にはすでにだれもいなかったし、もう入れないとのことだった。
 和男は入口から少し進んだところで途方に暮れてしまった。空を仰いでもなにも変わらないとはわかっていても、すがるような目で夜空を見上げていた。




 家の前でたった今タクシーを降りた早苗は、ふと空を見上げた。
「うわぁ~……」




 澤田淑子は、眠っている正樹の額を撫でながら、窓の外の夜空を見ていた。




 自宅のガレージに車を乗り入れた正太郎は、少しのあいだ座席に黙って座っていた。
 車を降りて玄関の鍵をあけるとき、向こうの家と家の隙間からいくつかの星が見えた。




 美穂子は仁志と別れたあとも駐車場から出ず、車に背を預けたまま夜空を見上げていた。
 見える星にもなんとも思わなかったが、それでも車に乗り込む気にはなれなかった。
 やがてなぜだか、その星がにじんできた。




「おぉ~、星ぃ~……」
 僕は夜道をひた走る車窓から、首をひねって夜空を覗きこんでみた。
「……イマイチ」
「どら」
 ウメちゃんも特にこれといった感想はなかった。
 ≪バーミヤン≫で交わした言葉が思いだされる。
「これから向かったら着くのって3時ぐらい?」
「そだね。途中、写真撮ったりとかもないから早え~よぉ~?」
 しかし稚内はまだまだ遠い。




 仁志はほとんど前を見ていなかった。なんとなくフロントガラスの向こうに広がっている夜空の星ばかりを見ていた。
 そんな感覚で帰路をひたすら運転していた。




 ホテルの部屋を出てから、ずっと知恵はここで夜空の星を眺めていた。
 途中、何度も和男のことを思いだしては、涙で星が見えなくなった。
 そのたびに和男が戻ってきてくれてるかもしれないと、部屋に戻ろうとした。
 しかし、テーブルの上に置かれていたお金がすべてを物語っていた。
 そんな気がしてつい衝動的になる知恵を、呪縛のようにその場から動けなくさせていた。
 それでもやがてその涙が渇くと、また夜空を見上げた。
 カズはわたしのこと心配してくれてるのかな?
 でもそれだったら電話でもメールでもしてくれてもいいよね?
 もうカズのことは忘れよう。
 わたしみたいなガキ、本気で相手にしてくれるわけないもんね。
 わたしはホントに好きだったけど。
 涙が出たけど、袖で全部拭った。
 携帯電話に残っている和男からのメールを全部消した。手帳に貼ってあるプリクラも全部はがして捨てた。
 ホテルの屋上は部屋のエアコンに当たるよりも涼しかった。それはきっと、フェンスも越えて屋上の端から両脚をだらりとぶら下げながら座っているせいかもしれない。吸い込まれそうだった。
 屋上に来たときには、本当にここから飛んでしまおうとさえ思っていた。
 おなかもすいてきた。さすがに泣きすぎて疲れたかな?
 知恵は手帳をバッグにしまうと、それを肩から提げた。携帯電話の下にあった4万円をつかむと、携帯電話をジーンズの尻のポケットに押し込んだ。すくっと立ち上がったときには、好きな歌を鼻歌で奏でていた。
 それにしても今日は星が多かった。




 もう部屋に入る気はなかったし目立つ車だったから、和男は、ホテルの横の脇道に停めていた。
 少し小走りして車の横に着くと、一応あたりを見渡してから乗り込んだ。
 ハンドルに両手を乗せただけで動かす気にはなれなかった。
 思わずハンドルを殴りつけていた。2度。3度と悪態をつきながら殴りつけた。
 やがてズボンのポケットに手を突っ込むと、キーと一緒にメモ帳も出てきた。
 ルームミラーに自分の顔を映した。この数時間でひどくやつれたように見えた。
 その隅で、外灯の明かりに照らされながら、なにかひらひらと花びらのように舞い落ちるものが映った。
 振り返っても、それがなんなのか判別できなかった。
 “星でも降ったか?”と、そんなセンチメンタルなことを思い、ひとり自嘲ぎみな笑みを浮かべ、そして首を傾げながらまた前へと向きなおった。
 そのときだった。
 たったいま自分の目で見たことなのに、なにが起こったのかわからなかった。
 地面がひっくり返ったのかと思うほどの衝撃を受けた。その瞬間に音が消えた。ルームミラーあたりが原型をとどめないほどひしゃげたのと同時に、フロントガラス一面にひび割れが走った。あごと首がおかしくなり、体が浮いて脳が揺れた。華奢な膝がフロントガラスの向こう側に垂れ、運転席側の窓の外には、白く細い腕が肘の内側を空に向けているのにこちら側に折れていた。
 そのすべてが一瞬のうちに起こり、和男はその中心にいた。
 みるみるうちに窓という窓が滴ってくる血に呑みこまれていく。
 血の隙間から、フロントガラスの向こうに見覚えのあるスニーカーが覗いた。
 知恵のお気に入りのものだった。今日も履いていた。
 それから湿気の多い夜気と血で、ズルリとその体がフロントガラスのほうへ動いた。
 その顔を見る前に、和男は絶叫しながら気を失った。
 57...58...59...

  • August 13, 2005 2:05 PM
  • 松田拓弥
  • [ ゲロ古 ]

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さおりんぐ August 17, 2005 9:44 PM

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 かなり真剣に読ませていただきました。
 面白かったです。

 気の利いたコメントいえないけど。

on the hip  August 18, 2005 9:45 PM

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 大概の場合…お墓といいますか
仏様へのお参りには、手を叩かないものです。
(何か、特殊な宗教に入っていれば別かも?)

 まっ 気持ちの問題だから参らないよりかも
全然良いと思います。

Takuya August 19, 2005 2:09 AM

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 ありがとうございます。
 とても嬉しゅうございます。

 ただ、なぜか“早苗”がシャワーを浴びていたのと、
“知恵”が“千恵”と2人いたこと、ごめんさぁ~い。
 修正したでございます。
 まだまだ誤変換、誤字・脱字などございましたら、
なんなりとぉ~。

Takuya August 19, 2005 2:12 AM

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 親父にそう言われ、なんの疑問もなく今日まで続けてるので、
じゃあやっぱり、なにか特殊な宗教に入っているのでしょう。
 しかし、テロリストではございませんので。
 よろしく大衆。

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