人間は、人間関係、あるいは対人関係を築こうとする際、その常として少なからず上下の関係も同時に作ろうとする。
それはなぜか?
そのほうが他人に対して、自分が、接しやすいからだ。
そのほうがお互いの関係というか、よく耳にする言葉を拝借すれば、“立場”というのがはっきりするわけだ。
しかしながら俺様っつーのは、その上下関係っつーやつが大嫌い。
要は、おもしろくねぇ。
ゆくゆくはお互いの顔を舐めまわすほどのタメ口になるか、その関係が切れるかしかないわけよ。
だったら最初っからそこを取っ払おうとするってだけのこと。
結局は個人的な好き嫌いの問題で、SMAPさんの“セロリ”な考え方と価値観でしかない。
でもセロリは美味いんだよ。
んじゃ、それにはどうすればいいか?
だから俺様は、“俺様”と言うのだ。
見知らぬ人と話すときは、“です・ます調”で話すというのが一般的で、一番無難。
常に「年上には敬語で話せ」とか「話し方、言葉遣いに気をつけろ」という人と話すときでも、“です・ます調”で話していればなんら注意されることはねぇ。
むしろ、その途中でたまのタメ口を織り交ぜると、さらに好感度が上がる。これは経験上からくるもの也。
言わないけど表情が引きつったり、いちいちうるせぇやつもいるけど、そういう人はだれと話してても自分のほうが上であろうとする人間でしかないから、なにを言ってもムダ。人の言葉に耳を貸さないし、傾けようとする気すらねぇ。
それもまたきっとその人の経験からくるもの。ずっと人の上に立って振る舞ってきた人っていうだけのこと。
中小だろうが弱小だろうが、会社の社長だった人が、なんらかの理由でそうじゃなくなった際、人に命令されたりすることが非常にストレスになるという。
自分のなかに人から命令されるとか、アゴで使われるとか、ましてやなんの肩書きも実績もない年下からなにかを言われるっていう経験がないからだ。
きっと慣れとはちょっと違う。
人間、仲良くなれば、自然とタメ口で話すようになる。むしろ敬語のほうが“なんで?”とか言うまでになる。
それはなぜなら、それまでお互いが敷いていた“距離”というものが、お互いに歩み寄ろうとすることで消えていくからだ。
“敬語とは、距離である”なんてたしかだれかが言ったはず。
たしかにそうだと思う。
一般的かつ無難なことは、より一般的で無難で、さらには世間的にもっとも広がり普及する。
むしろ、すんなり受け入れられる万人向けであり、それがしやすいってことで、右に倣えの強要ってやつだ。
個性や独創性が大事みたいなことを叫ぶ人は、たぶんそれができる人か、逆に横断歩道をみんなでしか渡れない人。
自分がそれをできる人と、まったくできない人は、仲間になりやすい。優越感と憧れだ。
人の心は、その人が生き物である限り、それもまた生き物であり、そこから発せられる言葉も同じ。
生き物は生き物を産み出せる。
極端なこと言っちまえば、芸術だってある専門家じみた人の評価じゃ“躍動感”だの“まるで命を吹き込まれた生き物みたいだ”なんていう表現をする。
あくまで比喩表現なわけだから、“命は吹き込まれてない”っていうのが事実なわけだけど、人の心にそう届いたというのもまた事実。
その芸術自体が生き物であり、それを評価する人の言葉も生き物なわけだ。
と同時に、生き物は生き物どうしで優劣をつけたがる。
ペットが可愛いのは、自分が人間で、その飼い主だからにすぎない。
どこかで自分に対する自信のなさを、そこから得ようとするからじゃねぇか?
ペットは裏切らないんじゃなく、ペットは余計な口を出してこないから。人間の理解できる言葉を持たない。
九官鳥がしゃべるのも、その飼い主、人間が教えた言葉だけだ。
猫に引っかかれれば怒り、飼い犬に噛まれればまた怒る。間違いなく自分が悪いとしてもだ。
ペットに人権なんてものは必要ないのだよ。人間として見ず、むしろそうしちゃいけない対象で、それよっか主従関係のほうが大事だからだ。
ペットは自分の言うことさえ聞いてれば良くて、自分が必要なときだけそばにいてくれれば良くて、必要ないときは邪険にし、八つ当たりもできるってわけだ。
でもそれだけじゃないのは、優劣以上に、愛着というか、情というものもそこに移るから。
もともと自分のほうが上の立場だから敬語で話すなんて距離ではないにしろ、自分より下だからこその愛情が沸く。
自分がいなくちゃいけないとか、自分は必要とされてるんだっていう感情。
母性というか献身というか、自己犠牲からくる優越感というやつか。いや、さらなる優越感を得るための人にできる美談かな。
そしてそこからくる自分への自信。
個性や独自性を欲しがりながらも超然と自分を貫けるほど意思も強くはなくて、それでいてなにかと対等であることに嫌悪感を抱くわけだ。
前置きが長くなった。
というより、話が逸れた感がある。
こんなふうに書き出すのは初であるとはいえ、“俺様論”は本当にムダが多い。
とはいえ、一切のムダを省いちゃうと、人は長文を読めなくなり、それが自分っていう存在に少しでも向いてなければ興味を失う。
長編の小説が読めるのも、そこに自分っていう存在を投影できるかどうかであり、たったひと言でも自分にズババーンと心に響く言葉があるかどうかだ。
まま、ここまで読んでくれただけでも褒めてやろう。
ありがとう。
しかしながら俺様っつーやつは、人様と最初っから対等であろうとするわけだ。
のちのちのことを考えてとかいうわけじゃなく、その人と最終的には「おれ・おまえ」の仲になりたいとか望んでるわけでもなく、ただそうしようとするのが俺様の経験で、慣れっていうやつなんだな。
そうしたほうが、なにかと円滑にいく。
まま、年上の男にはたいがいにおいて、言わないけど影で気に食わないってことで切られることが多いけど、初対面からそうすれば、それすら言えないのでそのまま続くことも少なくないってわけだ。
考えてみてくれ。
そこにはどういった感情が介在してるのかな、Ms.モスキートくん。
……諦め。
“こいつはこういうやつだから仕方ない”
“こいつはなにを言ってもムダ”
どうだね、Mr.モスキートさん。
俺様はすごい気ィ遣いィ~だ。
しかも俺様のそれは、ものすごい自分勝手で、対人であるにも関わらず、自分の想像の域を常に越えない範囲のものでしかないわけ。
かといって、よくありがちな“自分はこんなにもがんばってるのに”とか“気を遣ってるのに”なんて被害者意識を持つほどのことでもないので、いちいち言わないし、それがバレることも良しとしない。
むしろ、その気遣いがバレてたんでは、意味がない。
それは“好意”じゃない。ただの“お節介”や“押し付け”で、さらには“強制”にまでなってしまう。
だから俺様は“俺様”と言う。
人間、同じことを二度繰り返されると、いい加減嫌気がさしてくる。飽きもくる。
まだ核心はこないのか?
きます。
今、きます。
気を遣う人ってのは、逆にむしろ気を遣われる。
俺様はそれがイヤなのだよ。
その人より下に見られるのはもちろんイヤだけど、上になるのもイヤ。
対等であるっていうことは、それがないっていうこと。
とはいえ、まったく気遣いのない人間関係なんてのはすぐ破滅する。
最低限のそれは必要な対等さ。
そしてそれがお互いに“好意”であるということの大切さ。
最初に“です・ます調”で話してしまうと、その後もなんだかんだでその言葉遣いを引きずってしまう。
どっちかがもし歩み寄りたいと思っても、その一歩が踏み出しにくくなる。
そこが優劣関係の問題で、“もしかしたら相手の人はそうは思ってないかもしれない”とかいう不安や、“自分だけ近づいてくのはなんかイヤ”とかいう感情が邪魔をするわけだ。
いったんその邪魔が入ってしまうと、そこからなかなか抜け出せなくなる。
そしてそれがお互いに同じことを思ってたんじゃ、ずっと自分も相手もお近づきにはなれないわけだ。
それじゃ~恋する乙女が、いつまで経っても甘酸っぱい初恋味のガムを噛んでるだけになっちまう。
まあ、恋はその一部。
でも“気を遣わない”とか“気遣いをしない”とかいうんじゃ、まだ弱い。
“気遣いができない”とか“気を遣えない”っていうぐらいの強さがないと、中途半端になってしまう。それが一番ダメなんだな。
んじゃ、人が無意識に、あるいは意識的にでもそういう状態になるのは、どういうときか?
または、どういった感情が起きたときか?
1番はキレたとき。
2番はムッときたとき。
3番はカチーンときたとき。
そして、4番あたりに呆れたときや、その人の印象を自分のなかに確立させたときがくる。
だから、俺様は俺様を“俺様”と言う。
3回目は、さらに上へ。
ここでまず人は呆れる。
“こいつなに言ってくれちゃってんの?”
“こいつ何様? あ、俺様って言ってんのか(失笑)”
そこでは“気遣いができなくなる”っていうところまではいかずとも、“気遣いなんてする必要ない”っていう程度にはなるわけだ。
1番いいのは怒らせることだけど、対人において感情を支配しやすいのは、この呆れだと思うわけ。“ここまでくるともう笑うしかないよね”っていうのは、ある程度の経験や知識を積み重ねてきた人だと口癖に近いところまでいく。
一発目から怒らせると、ただ怒らせるだけになってしまうわけ。
まあ、“どうでもいい”っていう印象よりは、なにかしら感情が湧いたほうがいいっちゃーいいんだけど、人によっては話すらまともに聞かなくなっちゃうので没。
で、失礼なことを言う。
当然ムッとする。かるく怒る。
ここでもう大半の人は、俺様への人間像っていうのが確立される。
ズケズケ言うし、失礼だし、デリカシーのかけらもなく、社会人、あるいは大人として、社会不適応者とまで思うかもしらん。
おまけに呆れてもいる。
そこで“こんなやつに気ィ遣ってた自分がバカらしい”とすら思えてくる。
怒るとやけに冷静になるって人もいるけど、距離も一気に縮まる。
「バカじゃないの?」
「自分のこと“俺様”なんて呼ぶやつはロクなもんじゃない」
けど、それでも俺様という俺様が下りてくるわけもない。人を小バカにしたような態度によりムカついてくる。
じゃあ自分がそこまで行かなきゃならないわけだ。
いくら見せかけだけとはいえ、この際そんなことはどうでもいい。むしろ俺様をあくまで俺様としてみてるわけだから、自分も俺様にならないといけない。
で、知らず知らずのうちに敬語が取れて、俺様を無理やりにでも引きずり下ろそうとするわけだ。
「もう勝手に言ってれば」
完全に呆れる。怒っても仕方ないぐらいの域になる。
そんな俺様には、気遣いなんてできるはずもないのだな。
大・成・功。
だから俺様の“俺様”っつーのは、みんなへのメッセージ。
みんながみんな俺様だ。
だれを上にするでもなく、だれを下に見るでもない。
本当は呆れられたり怒ったりされたりするのは、俺様にとっても侵害だ。いや、それはちと語弊があるか。
まあ、そのへんは今はいいさ。
真意が伝わりにくくなる。本心と俺様が一緒に同じもんだっていう認識になる。
なにを言っても「さすが俺様」とか「俺様だもんね」とか言われるようになった。人間として全否定されることまである。
たぶん人から“バカにしてる”ってよく言われるのも、そのへんが少なからず関係してるんだと思う。それも呆れからくる言葉にせよだ。
おまえも俺様のところまで上がって来いなんて思ってないさ。
かといって俺様の真意に早く気づいてくれとかも思ってない。
完全に矛盾してるかもしれないし、それこそが俺様のおごりだったり自己満足の優越感なのかもしらん。それこそが自分は高いところにいて、そこから人を見下ろしてるって言われるかもしらん。
効率も悪い。
でも俺様は人間関係に効率の良さや合理さ、要領の良さなんていらねぇ。
─── おれ頭わりぃから、そんなふうにしか人と楽しく接する術が見つけられねぇんだよ。
んな卑屈なことは言わねぇさ。
それが俺様のやり方っつーだけのことであって、ふと気づいたそれがたまたま俺様に合ってたってだけのこと。
それはいつもお互い様で、人はペットなんてもんでも、抽斗にしまっておけるようなおもちゃでもなく、人はあくまでいつも人。
天が人を作ったんじゃなく、人を作るのは人でしかない。
そんなのあたり前かもしれんけど、そういうことを忘れたくない。
“きれいごと”とか“理想論”とか“机上の空論”とか、人が使う言葉を作るのも、人が人に伝える言葉を使うのも、人。
“俺様”っつーのも言葉なんだな。
かといって言いたいやつには言わせておけなんて言えるほどの強さもない。
好き放題言われれば、そりゃ少なからず傷もつく。
だから、勝つ強さじゃなく、負けない強さ。
“俺様論”ってより、そう考えるようになるまでの経緯みたいな感じだな、こりゃ。
“俺様論(議)”にすっかな。
まあ、自分が今までも今でも、そしてきっとこれからもそう接して、そう思ってもらうようにしてるから自業自得だっていうのは重々承知。
でも、それ以前の問題、それ以上に大切にしたい気持ちっつーのがあんだよな。
最後まで読んでくれて本当にありがとう。
そして、皆様、俺様、お疲れ様。
- August 2, 2007 2:32 AM
- [ ゲロ古 ]