“15時までには来ていてくださいね”
僕は、15時までに行けばいい。
しかしながら、どうどこではき違えたのか、そのとき僕が靴を履いたのは、14時46分だった。
そのとき僕ははたと思いだした。
<そういえば、バイト帰りに見たとき、ウォ~クメンの電池残量が少なかった>
すぐにリュックからそれを取り出し、予備のバッテリーと入れ替えた。
雪が降って、もう外は冬道だった。
そんななか猛烈に自転車をこぎながら、僕はまたはたと気づく。音楽が鳴らない。
リュックの肩パッドにくっつけてあるクリップを見ると、バッテリーを示すマークがゼロで点滅していた。さっきのやつよりさらに少なかった。
「マジかよ……」
雪道にキャーキャー言いながらもひとり言。
「……ちゃんと充電したべや。なんでリュックに入れてるだけで減んのよ」
≪セブン・イレブン≫に入るちょうど手前の短い信号待ちで、バッテリーをまた替えた。
ちゃんと鳴った。流れはじめたのはテレサ・テンさんの『つぐない』だった。
「……お酒飲むのもひぃ~とりぃ~、歯医者行くのもひぃ~とりぃ~……」
そして僕は、またキャーキャー雪道と戯れながら、歯医者さんへと向かった。
今にして思えば、そのときなんとなく感じたヤな予感、あれを僕はもっと重く受け止めるべきだったのかもしれない。
15時2分前に到着。
息切れ上等。
血まみれの急患かというぐらいの勢いで機械に飛びついた。
受付を済ませると、もうあとは呼吸を整えながら長い廊下を歯科口腔外科に向かって歩いて行った。
途中、水が飲めないってことで、うがいをした。
歯医者さんは、恐ろしい混みようだった。
いつもなら、けっこう埋まってるとはいえ、まばらにもあいた椅子がある。でもその日はそれがなかった。
僕はとりあえず、歯科口腔外科の受付に行った。
もうご無沙汰だったから受付のしかたも忘れてたけど、それもすぐに終わった。
で、待つ。
『君に読む物語』を読みはじめた。
「受付番号“336番”の方ぁ~」
やっと呼ばれたとき、もうかれこれたぶん2時間近く待ってたと思ふ。
『君に読む物語』は、かなり僕に読みまくっていた。ひさびさにかなり進んだ。
結果的に良しとしよう。
もう2度目だし、要領はわかってる。
看護婦さんの指示どおり、ロッカーに荷物を入れて、基本票をもらった。
「今日はお車で来てないですよね?」
「はい」
自転車ですから。たぶん車より危ないと思います。
さぁ~て、点滴だ。
「あ、点滴の方?」
“中央点滴室”からたった今出てきた女医さんに訊かれた。
「はい、そうです」
「あ、じゃあ、椅子で待っててくれる? そこだから」
「あ、そうなんですか?? はい、わかりました」
待機。
「“665番”の方ぁ~?」
左隣のスキンヘッドなおじさんがなかに入っていった。暇だから見てると、奥さんが水のペットボトルを持って1歩だけ進んでそのおじさんを気遣っていた。
やがて隣におかしな二人組が現れた。おじいさんのほうは、海外のマフィア映画に出てくるボスのようにしわがれた声で、若いほうに話しかけていた。
あぁ~、暇すぎる。
点滴でもかなり待った。
やっと呼ばれてなかに入ると、前回のときと同じ看護婦さんだった。なんか安心。
「あ、今日、ホントは何時からだったの?」
「ああ、15時半」
「ああ、ホントぉ~。かなり待たされてるねぇ~。ごめんねぇ~」
「いえいえ。今日は忙しいんですか??」
「え? なんで?」
「いやぁ~、なんかいたるところで看護婦さん忙しいそうだから」
「ああ、なんか気遣ってもらっちゃってごめんねぇ~?」
「いえ、別に……」
「ってか、なんで看護婦さんて走らないの?? どんなに忙しそうでも誰ひとり廊下走らないよね」
「ああ、そう言われてるからねぇ~。みっともないって」
「ああ、そうなの」
いつの間にか点滴の準備も終わっていた。
「はい、じゃあ、ちょっとチクっとするからねぇ~」
「はい」
「あ、やっぱり痛かった?」
“やっぱり”?? なぜだ??
憶えててくれたのか??
「ええ、やっぱダメですわ」
「そっかぁ~」
看護婦さんが管を腕からはずす。
「あ、あの、なんか血管の外壁を突っつかれてるみたいに痛いんですけど」
「え? これは?」
「あ、それはだいじょぶ」
「これは?」
「だいじょぶ」
「う~ん……なんかしびれてる感じとかある?」
「……いや、基本的にしびれてるんで」
「でも漏れてるとかないし、やっぱり刺したあとは痛いよ? 針刺したところじゃなくて?」
「う~ん、そんな感じもするかな。まあ、だいじょうぶかと思われます」
「漏れてたりしたらまた刺さなきゃダメだよ?」
「え?? あ、じゃあだいじょぶです。問題なし、オッケ」
「そ」
看護婦さんは笑っていた。
「もしなんかやっぱり痛いとかあったら呼んで?」
「はいィ~」
看護婦さんは振り返った。そのうしろ姿がたいへん忙しそうに見えた。
それでも俺様は呼び止める。
「あ、そういえば、これって麻酔じゃないんですよね??」
「あ、うん。違うよ? これ、なんも入ってないから。けっこう患者さん間違うんだよねぇ~」
「ああ、やっぱり」
「うん」
「っていうかね?? おれさぁ~、麻酔効かないんだけどだいじょぶなんでしょうか??」
「え? ホントに?」
「そう。前の手術のときもずっと起きてたのです」
「えぇ~、じゃあ最後まで意識あったの?」
「うん。最後に“はい、終わりましたよぉ~”って言われたの聞いたのさ」
「ウソぉ~」
「ホントだってばよ。だからもうイヤなのです。今日は寝たい。寝てるあいだに終わってほしいのです」
「そうだよねぇ~。じゃあ言っとくから」
「うん。よろしく」
「じゃあ、歯科衛生士さん迎えに来るから」
「はいィ~」
また暇な時間が訪れた。今日は天井の模様を目で追っていくことにした。
「はい、じゃあまた戻りますねぇ~」
歯科衛生士さんがやってきた。
僕はベッドから上体を起こした。
「はいィ~」
見ると、文字どおりの仏頂面。かるくフテくされてるかのよう。
「あ、ああ、こうでしたっけ」
「いや、こう」
「あ、はい……すいません」
点滴を吊るす棒を支え、なぜか勝手に自分が謝ってしまう。そんな威圧感さえ漂っていた。
「あ、前に麻酔効かなかったんだって」
さっきの看護婦さんがわざわざやってきて、ホントにその歯科衛生士さんに言ってくれた。つくづく話せる人だ。やっぱ、こういう人好きだなぁ~。
しかぁ~し!!
その歯科衛生士さんときたら、ほぼ無視。もしかしたら鼻で笑ったのかぐらい、反応がなかった。
同じ病院にいて、同じ女性なのに、こうも違うもんかねぇ~。ムカつくわぁ~、こういう人。
「じゃ、あとからついてきてくださいねぇ~」
こちらも見ないでスタスタ先に行っちゃうのだよ、まったく……
「あ、はい」
こうも話せない人ってのは、俺様としてはもうほぼ危機的状況。精神がもう蝕まれていくのがわかる。イライラしてしょうがない。これもまた男の性というやつか……
で、待合ロビーにたどり着く。そのたった短いあいだなのに、一瞬たりとも和まなかった。
まあ、スキがないというのか、どうしょもないというか……まことしやかに遺憾の意だ。使い方間違ってるけど。でもそんな感じだったよ、あの空気感。
イラ立ちとフテくされた感じが、とってもエアリーな女性のヘアースタイルのように心の先がはねていた。
「それであの今 ――」
「はい」
「 ―― ちょっと場所があけられないので、ここでちょっと待っててもらえます?」
「え?? あ、はい」
「すいません」
また待機。
なんたるや、この恥ずかしさ。
旅のおともが点滴の棒だ。しかも歯医者さんで点滴なんて、入院してるわけでもないのに……んなやつ見たことないぞ。
呼ばれたらさっさとなかに入れるよう、受付のすぐ前の一番端っこに座った。
なにもしないでただボケーッとしてるのも変かなぁ~と思って、とりあえず点滴の袋とか棒とか、そのグリップの硬さとかを調べて過ごした。
「あ、やっとあきましたんで」
フテ人が呼びに来た。呼ばれるときぐらい別の人が来てくれるだろうと期待してたのに。
「あ、はい」
「すいません」
「いえ」
あとについてなかへ。
手術を執り行う仕切りへ行く途中、やくさん崩れとすれ違った。
お互いに挨拶はなかった。
でもこういう場合って、俺様からするもんなんだろうか??
まあいい。
さぁ~て、待ちに待った個室だよ。
「………」
「………」
「………」
「……あ、あの」
「あ、座って」
「あ、はい」
なんかしゃべれよ。ちょっとでいいから笑いを挟めてくださいよ。
っていうか、なんであんたと二人っきりなんだよ!! ほかの看護婦さんはどうした!! 高橋さんはどうした!?
まあ、来るはずもないさ。見るからに混んでたし。ああ、わかってたさ。
でもかわいい人がチラッとでも顔出してくれるとか、なんかあんだろう……
と、俺様が寝てる術椅子に歯科衛生士さんが腰をおろした。俺様の体の脇だ。おもむろにだ。
「はい、じゃあモニターつけるからねぇ~」
なに座ってんだよ。座る必要なんかねぇ~だろう!! 俺様の肉をケツで挟むな!!
しかもなんで急に甘い声だしてんだよ!!
チェンジだ、チェンジ!!
「はい、こっちもだからねぇ~。ごめんねぇ~」
準備が進む。
う~ん、手際が悪い。
そして最後には、俺様の上になにかのコードをぶちまけやがった。
「それじゃあちょっと、口開けてねぇ~」
「はい」
消毒と麻酔だ。
そしたらこれだよ。
ベロンベロンに濡れた綿を口のまわりに塗りたくりやがる。
「口のまわりも消毒するからねぇ~。口閉じててぇ~」
もうちょっとやり方ないか??
赤ちゃんのヨダレ拭いてんじゃねぇ~んだからさぁ~。
もう口を開けることもできやしない。
ちょっと経って男の先生が入ってきた。
「はい、じゃあ麻酔入れますからね」
先生が隣に座った。なかなか気の弱そうで人のよさそうな感じだった。口もとあたりが皇太子さんをかすめてた。
「あ、はい。あ、あの」
「はい?」
「前回、麻酔が効かなかったんですけども」
「あ、そうなの?」
「だから今日は絶対寝たいんですが」
「あ、じゃあ多めに入れとくね」
「はい、お願いします」
静寂のなか、それが俺様のなかへと染み込んでいく。
「はい、じゃあもう少し待っててくださいね」
「はい」
「それじゃあ滅菌されたマットかけますからねぇ~。手とかもう上げないでねぇ~」
「はい」
そしてあのマットが顔の上にかけられた。
そしてついにそのときが、その足音とともにやってきた。
やっぱり意識ありMAX。
今回はさらに、意識がより覚醒したかのような感覚だった。すべての声、物音、衣擦れの音まで聞いた。
改造人間もこんな感じなのか。痛みを感じないだけで、ただそれだけの感覚の集合体。
痛みを感じないというだけで、それ以外の神経はこうも研ぎすまされるもんなのか。
口を思いっきり開けられて、痛みを感じないけれど、あごがはずれそうだっていうのはわかった。
“滅菌されてるマットだから触らないで”って言われたマットに、歯医者さんは体ごと乗っかっていたのも知ってる。
もう途中からあきらめてもいたんだけど、でもやっぱり寝てたかった。
「……はい、終わったよぉ~」
終わった。
また終わった。そして、またその声を聞いた。
マットがはずされたときには、ひときわまぶしさを感じたもんだ。
そして場所移動。
今回は、足取りもしっかりしていて、自分からそこへ入っていったぐらいだ。
同じ歯科衛生士さんにベッドを案内され、そこに腰を下ろす。
その歯科衛生士さんは仕切りのカーテンを閉め、その隙間で僕にかけてくれるタオルケットを準備してくれていた。
「あの……」
「はい?」
「なんか怒ってます??」
いよいよ我慢できなくなって、ついに訊いてしまった。
「え? なんでですか?」
「いや、なんとなく……」
「いえ、怒ってませんよ?」
「そうですか……あの、僕のこと嫌いですか??」
「え?」
さすがにその歯科衛生士さんも驚いた様子だった。そこにちょっとスキができた。笑ってはいないものの、フテくされたような表情がさっと消えた。
サプライズは大切だと改めて知った瞬間だった。
「わたしのこと嫌いですか?」
「好きですよ??」
そう言ったらどんな反応するだろうと、ちょっと試してみたいという衝動に駆られたけど、それはグッと堪えた。
「いえ」
「じゃあ、しばらく休んでてくださいね」
「はい、わかりました」
歯科衛生士さんはカーテンを完全に閉めて、去っていった。
僕はベッドに横になった。
……すぐに僕はベッドの上で起き上がった。
まったく寝れない。意識がまったくよどんでない。濁りのかけらもない。むしろ冴え渡っていた。
女の人が入ってきた。
僕のところに来てくれるもんだと思っていたら、隣のカーテンを開けたようだった。
僕はもう帰りたかった。休む意味がないんだものねぇ~。
「だいじょうぶですか?」
「……あ、ええ、はい」
その女性は、思いっきり寝ぼけた口調だった。いいなぁ~と、純粋にうらやましかった。
「もう少し休んでいかれますか?」
「……あ、はい」
看護婦さんと話す声を聞いてると、ちょっと若そうでよさげな声音だった。
魔の手は暇人に忍び寄るって『バスケットボール・ダイアリーズ』のなかでレオナルド・ディカプリオのお母さん役の人が言ってたけど、まさにそのとおりだった。
カーテンを少し引いて、そちらさんにちょっと話し相手になってもらおうと思った。
手は伸びた。でもムリ。
俺様ももういい大人だ。そのへんのことはわきまえてる。
それからしばらく、歯科衛生士さんが来てくれるまで、ずっとベッドの上にあぐらをかいて待っていた。
で、歯科衛生士さんが来てくれて、無事僕は、しっかりと地面の感触を踏みしめながら歯医者さんをあとにした。
今回の料金、6673円。
ホント親知らず貧乏だな……歯医者で破産なんてシャレにもならん。
……ってなわけで、今回のデスマッチを終えてわかったこと。
俺様の体は、本気でまったくもって麻酔が効かないんだということ。
普通に話せる。
笑える。
メシも食える。
歌もうたえる。
ただ、口が開かない……
いや、嘘。
それは嘘です。
口は開く。
でも、自由自在じゃない。
それが今回、唯一の後遺症だ。あごはずれたか??
あとはまあ、なにかを飲み込むと、なんかのどが痛む。こりゃ骨になんらかの干渉してやがったな。よもやリンパまできてたか??
まあ、前より多少埋まってたしな。
とはいうものの、それもほとんど治った。ハニーミルクもガブ飲みさ。
ただいま我が家では、驚異的なスピードで牛乳がなくなる。1週間で8本が空になる。
まるで湯水のように消費する。
これが完全に治ったあかつきには、とりあえずお祝いとしてまっ先に《らっきょ大サーカス》へ行こう!!
まあ、なにはともあれ、これで完全におさらばだ!!
あと残ってる抜糸なんざ屁でもねぇ~。
早く大口開けて笑いたい。歌いたい。
歌いたい。
歌いたい。
- December 16, 2005 2:59 PM
- [ ゲロ古 ]