これ忘れてた。
前に途中まで書いて別んとこ移したまんま放置になってたらしい。
今日思い出した……
人から自分はどう思われてるか?
じゃない。
人から自分はどう思われたいか?
重要なのはこっちだな。
人間関係っていう土俵上でも、築こうとか築きたい相手に対する自分の欲っつーのはやっぱ重要。
“先手必勝”なんて言葉があるけど、勝ち負けなんぞはこの際どうでもいい。
人間関係においては、今流行りの言葉を借りれば“勝ち組”だろうが“負け組”だろうが、要は最終的にそこにできた人間関係ってやつのなかで自分の欲が通ってるかっていうそこに尽きちまう。
それが叶ってない人間関係は、きっと遅かれ早かれ終わる。いや、終わらせる。
人間関係においては、きっとそれが負け。勝ちは、自分が意図したとおりに自分てやつが他人から認識してもらえてる状態。
でもって、たぶんそこが疑問であり、その理由であり、一つの答えなんだろうなと思ふ。
ヤベ、なんかもう結論出ちゃった気ぃする……
なんかめずらしくうまいことまとまってる。
でも負けんな!!
人間、人の印象っつーのは、たぶん育たないし成長もしない。
かといって後退もしない。
つまり、その人に対して自分が“この人はこういう人なんだ”っていう意識を持った瞬間に、すべてが決定されるもんだと思う。
で、なおかつその印象は、その後そう簡単には揺るがない。他人の言葉ごときじゃ左右されない。
これまたつまり、自分が意識したその人の印象を覆すには、またもう一度自分がその人に対して新しい認識というか、印象を持たないと変わらないっつーことだ。
で、これは、実際にはなまらムズいと思う。それはきっと、その印象を抱かせた相手ですら。
ほぼ主観でしか自分以外を見ないわけで、自分の色眼鏡にかなったものだけを映そうとするわけだ。
大人になれば聞き流すっていう術を身につけ、興味のない人間はかるくあしらって受け流すという生き方を学ぶ。
むしろそれができなきゃ大人じゃないとまで言われる始末。
“じゃあ大人になんかなりたくない”なんて言う人も多いけど、知らず知らずのうちにやってるのも事実。ただそれを自分で認めたくないだけのこと。
客観的に見れれば、そんなもん自分がされたらイヤに決まってんだよな。
興味を持った相手にソッポ向かれるわけだ。気分がいいわけもない。
それでいてさらには、気の合う仲間を見つけようと自分から話しかけるっていうこともしなくなる。
面倒っていうこともあるだろう。いやいや、それがきっと一番だろう。
そして過信というやつは、わりかし命取りになったりするわけだから、自信を持つっていうことにも抵抗を感じたりするようにもなる。
あっても表に出せない自信。それはいつしか自分でも自己満足という言葉で自嘲気味になってみたぐらいにしてな。
ちょっと小出しにしただけでも自意識過剰というレッテルを貼られたり、自信のあることを伝えるときでさえビクビクして不安に駆られたりする。
「自分に自信を持つということは大事なことだ」とか励ましというか、時には同情とも取れるような言葉を手渡しでくれる人もいるわけだけど、自分にまったく自信のない人間なんてきっといない。
よく聞くのは“自信とは、自分を信じると書く”わけなんだけど、そんなことはどうでもいい。
文字なんて受け取り方次第でどうとでもなるわけで、そのときの状況に合ったものを、自分のなかで“ちょっとうまいかも”なんて褒めてあげられるものを選んでるだけに過ぎない。
またほかの場面では“自ずと信じることができた”とかも言えるわけだ。
“人”という字は、人と人とが支え合ったとき、ちょっと上になる左側の人のことだ。で、その左側の人の心に触れたとき、“入る”っていう字になるんだよ。
それよか自分に興味を持ってくれた人にいい顔してるほうが楽なんだな。悪い気もしない。
実際、だれかに好きって言われてからその人を好きになってく人がほとんどだ。
そのほうが楽だし、他人に対して気を揉む必要もないし、惚れたのは向こうだなんてそれなりの優越感もある。
ちょっと人より高い位置に座ってるほうがなにかと円滑にいくわけだ。
一度対等になるとほっとけばいい気になるし、下だと卑屈になったり、ただ漠然と気に食わないとか不満が募ったりする。
人間、他人に対する評価は厳しい。
最初っから自分には人を見る目がないとか、自分は間違ってるなんて意識で判断したり決断したりする人なんていないだろうて。
だから、人は“確認作業”ってのを嫌う。他人に対してのそれはけっこう好きなのにな。
たとえば仕事においては、自分がミスってるなんて思いながら仕事してる人なんていないだろうさ。
自分のミスチェックを自分でするのは、ほぼ無意味と言えようぞ。確認してるようでしてない。見てるようで見てない。
自分が見てるのは、むしろ自分の仕事っぷりだ。ミスを探すより、無意識にでもミスのなさを心のなかで褒めてるかもしらん。
ミスを発見するのは、たいがいいつも他人なんだな。
だからだ。
だからもし、そういう自分のなかに芽生えた印象にふさわしくないことをしたり言ったりすると、人は「らしくない」とその人に言う。
こいつはきっと、自分のなかにある印象からズレたその人を、無意識にでも自分のなかにある印象にまた修正しようっていう働きかけなんだろうと思うわけ。
ズレは認めない。そんなきみは受け入れられない。
いくら笑いながら言おうが、冗談めかして言おうが、そんな意識はないと思ってても、たぶんそう言ってるのと同じ。
笑えないことならなおさらだ。
じゃあどうするか?
簡単だ。
自分がこう見てほしいっていうふうに振る舞えばいいだけのこった。
たぶん人がだれかに対して、その人の印象を抱くまでには、そんなに長い時間はかからない。
もしかしたら初めて会った瞬間にもう決定を下されてるなんてこともある。
だから第一印象は大事というわけだ。
でもって、人がだれかに対する見方になにかしら変化が生じれば、間違いなくそれは態度や言葉にも変化が出る。
今までは相手から電話がきてたものが、いつの間にか電話するのは自分になってる。具体的な例だ。
つまり、それまででいいわけだ。
ちょっといつもと違うことをしてみて、「らしくない」って言われたあかつきには、もう完璧。
たぶんそれはもう、よっぽどのことでもない限り、その後ほぼ変わることのない印象となる。むしろ、その印象こそがその人の姿かたち、人間像となるとかまで言ってみてもいいんじゃないか。
ダメな男ほど見捨てられず、バカな女ほどモテる。
結局そういうこったろ。
わりと人間っつーのは、その人の像をきちんと見てるようで、いろんな面を言葉や文字で認識してる部分が多い。
まあ、ここはあくまで日本なので、自分を構成させるその文字が、きちんとその人のなかで漢字に変換されるまででいいっつーわけ。
たとえで言えばそんな感じ。
再変換はほとんど使わない。そんなことするぐらいなら、その文字ごと消して、新しく打つのが人間の心理。
もしその印象が変化するとか、あわよくば崩壊みたいなときは、前触れとして「らしくない」とか「変だ」とか「おかしい」とかいう優しい助言をくれるはずだ。
一度固まったものの先につづく印象というのは、まず間違いなくその人に対する“期待”というやつが大半を占めるようになる。
女性の口からよく聞こえてくる皮肉。
「昔はもっと優しかったのに……」
男性の愚痴。
「最近じゃ見向きもされない……」
逆説でもなんでもない。
それはこういうことを如実に物語るのだよ。
“いつかまた……”
結局のところ、そういう人間関係を築いている人たちのほうが、その後もなんだかんだ言いながら長くつづいてるわけだ。
ザックリいけば、未来を見てるようで過去を引きずるわけだ。
なにげに体裁を繕うと、温故知新。未来への期待 ─── いや、“期待”っていう単語はわりとあまりいい印象を与えないので、未来への希望としておこう。
過去を知り、よかったときさえ憶えていれば、だいたいはその印象だけでやっていけるもんだ。
だから過去をたいして知りもしないで悪い面が見えてしまうと、「らしくない」じゃ修正しきれずに、終わらせてしまうわけだ。
簡単なこった。
“自分が知ってるその人じゃない”からだ。
まあ、勘違いと思い込みの賜物だ。
“自分はその人の本質を知ってる”
本当は優しい人なんだとか可愛いところもあるんだよなみたいなな。
人間関係はいつもお互い様っていうのは、たぶん、そういう部分が大半を占めてるからなんじゃないかなと思う。
自分のなかでいったん固めたものを、もう一度また最初から解きほぐすっていう労力は、あまりに大きい。だったら、形が歪んだ部分を少しずつ修正していくほうが簡単なんだな。
いらない部分は聞き流す、受け流すっていうことで切り捨てながら、自分が欲しい部分だけを紡ぐ。
修正すら面倒なら、きっともうそんな人間関係は自分のなかで成立すらしてない意識なんだろうな。
“友達”と“親友”、“知り合い”と“仕事の同僚”みたいに、いろんな人間関係それぞれの抽斗を用意したがる。
実際にはたいして区別する意味もないし、できてもないのに。
自分が認められないことは認めない。
当然に聞こえる響きだけど、これって案外逆の難しさを示してる。
その深い浅い、長い短いに関わらず、一度でも人間関係を築いた人間に対して、なんの前触れもなく去っていけるほど、人間てのは強くねぇ。
かといって、いつまでも甘くいい香りのチョコレートを準備してられるほど、人間てのは弱くもねぇ。
……ASKAパクり
- July 28, 2007 1:32 AM
- [ ゲロ古 ]