いい加減、動画の編集しないといかんな。
あと、せっかく撮った写真もまだケータイから出てもいねぇ。
日記もまた週刊だろ、結局さ?
一体俺様は、なにがそんなに忙しいんだ?
オイ、おまえだよ、おまえ。
いや、マジで。
なにをそんなにして忙しいと言い逃れをするのだ?
そんなに忙しいのか、本当に?
………
ああ、忙しい。忙しいんだよ。
いや、マジで。
寝れねぇんだよ。
寝ないといけないのに寝れねぇんだよ。
寝てちゃんと起きないとクビなんだよ、クビ。
まあ、そう宣告したお偉いのは、ほかの人に「まあ、あいつはちゃんと来れて1、2週間だな」とか言ったらしいが、俺様、案外マジメなんだよ、そのへん。
って言っても、ただの保身だけどさ。だれのためでもねぇ、自分のためだ。
今ここでバイト辞めてもだいじょうぶな状態だったら、それまで同様、変わらずいつまでも寝くさってると思われる。
というより、なんかウダウダ言われた時点で、辞めてるはず。
あらゆる対象において、あんまし一つには執着しない。
ただ、この絶対条件 ─── それが自分に許される状況なら ─── つーのがある。
このルールは、ウッチャンが前にテレビで笑いながら言ってように、俺様にとっても「ルールは絶対」という一面がある。
意外にも、人間てのは“縛られる”っていうことに、少なからず望みを持ってると思う。
社会においても、恋愛においても、あらゆる事柄においてそれは大なり小なりあると思ふ。
むしろ、なにかに自分が縛られてないと不安になると言ってもいい。
だから社会では、すぐ規律だのルールだの、表面上はなにもないっていうのを掲げてるとこに限って、なにかと“常識”とか“普通”っつーのを持ち寄ってくる。
挨拶や敬語はあたり前で、それが常識で、それが普通だと。
“社会人”と呼ばれるには、常識っていうルールのなかにいないといけない。そこからはみだすと、“社会人として失格”と言われる。
まあ、それでも“失格”っていうだけで、社会人として見られつづけるには変わりない。
というより、まわりが社会人として見たいだけなんだと思う。
恋愛においてもそうだ。
なんだかんだと「縛られるのは好きじゃない」とか口先ではぶっ放しながら、飲みに行くと言われた返事が“ふ~ん、行ってらっしゃい”だけだと不機嫌になる。挙句の果てには「行かない」とまでぶっ放す。
その日の予定を電話でいちいち確認されるのは面倒だし、ウザいと吹聴しつつも、いつの間にか自分でやりだす。
「今どこにいる?」
「あ、家だけど?」
「なにしてるの?」
「テレビ見てるよ」
「これからどっか出かけたりするの?」
「いや、別に予定はないよ? どうしたの?」
「いや、別に。出かけたりするんだったらちゃんと言えよ?」
「あ、うん、わかった……」
これが毎日のようにつづくと、うっとうしい。
でも、それがなくなるのは、それ以上に淋しい。
束縛は人を遠ざける。
でも、まったく縛らないのは、自然と人が遠ざかってく。
だれかを束縛するっていうことは、逆に、自分自身がそのだれかっていう存在に束縛されてるっつーのと同じこった。
極端に言ってしまえば、そのときそこにある自分ていう存在は、その束縛しようとする相手っていう存在の鎖でつながれてる。
つまり、束縛するっつーことは、自分の糸をその相手にくっつけて浮かんでるだけの凧だ。
たぶん、順風満帆では自分が浮かべないんだろうと思う。
向かい風があって、初めて自分が浮かべる。
そのくせ、なにかと自分から糸を切ろうとするわけだ。そして、それでも平気みたいな素振りでな。
依存。
執着。
意地。
子供と大人の違い。
拘束解除を解放と感じるのが子供。
拘束がなくなった瞬間途方に暮れて、嬉しさが入り混じった途端になにをしたらいいのかわからなくなるのが大人。バランスの崩れたそれを自由と呼ぶ。そして、それを歌詞にする。そんな歌を買って素敵な歌詞だと涙を流す。
学校が終わっても、ワーっと外には飛び出せないのが大人だ。
- August 26, 2007 1:03 AM
- [ ゲロ古 ]