あ、そうだ。
そうだそうだ。そうだった。
バイトのお給料日だったのだけども、辞めた人から電話がきた。
深夜2時。
一応わかってるから、仕事もひと段落するだろう時間帯になんてな配慮からだとは思う。
しかしだ。
ひさびさに理由のわからないイライラを感じたぜ。
「あ、もしもし? まっつん?」
「ああ、なした?」
「おれの給料明細ある?」
「ああ、どうだっけ? あったっけ? 見た?」
「捨てるなよ?」
「捨てねぇよ。つーかだれも触ってねぇから。ああ、たぶんあのおっさん持ってんじゃね?」
「あ、ホント?」
「知らね。でもおれらもらってないから持ってんじゃねぇの?」
「あ、そう。わかったわ」
……すっげぇ元気。やたらとハツラツ。
あんなに弾んだ声、今まで聞いたことねぇ。
嫌味だ。
そんな気はミジンコほどにもないとしてもだ。
俺様がこのとき感じたのは、話してて楽しいのはB型。
でも、それと同時に、一緒にいて一番イライラさせてくれるのもB型だっつーこと。
客観的に考察。
O型は、よくどの血液型とでも相性がそれなりにいいと言われる。
でもそれは、O型がだれにでも合わせることができるからに過ぎないと思う。
O型は、必要な分だけを残しながら意図的に自己主張を消すことができる。
基準は常に自分だ。
その分、一番したたかだと思う。かなり計算高いはず。
でも、その基準すら自分自身なために、計算高さも策略も、まったくもって見当外れなことも多い。
それでいてあらゆる基準が自分なために、なんだかんだと性格にムラがある。それまでその人が過ごしてきた経験や環境、状況によって性格が違う。
というのは、根っこになる部分すらないということ。
それはつまり、こういうことだ。
人から見える自分に対する“本質”っていうのが存在しない。
あるいは、させない。持たない。
テキトウにそのときの状況を自分なりにとらえて、その場に合った自分を作りだす。
かといって、ありがちな“そんな自分を演じてる”っていうわけではない。
自分が可能な範囲で、人からも自分としても無理のない程度内でのこと。
だから、そんなこともあってか、極度の面倒くさがりも多いはず。
合理的でもある。やたらとせっかちな人も多いはず。
でも、そのくせ自分が必要だと感じれば、どんなに面倒なことであっても、それは面倒くさいとも感じずに進んでやろうとすらする。
芸術家肌とか言われるのも、そのへんから自然とそうなるんだろうと思う。
単に自分の興味があることで好きなことだからズバ抜ける、ただそれだけのことだ。
基本的には、自分にも他人にも厳しい。
でも、その中心で比較対象とするのも自分なので、そこが甘ければ他人にも自分にも甘くなる。
自分がいいと思えば、それはほぼ絶対と言っていいほどいいもの。
イヤなものは絶対イヤ。生理的に受け付けないとさえ思い込むほどに、それを嫌うようになる。
人の話にちゃんと耳を傾けて聞くんだけど、その答えがすでに自分のなかで出ている場合、もし違ったことを言われると、テキトウに相手に調子を合わせて聞き流すだけになってしまう傾向にある。
相手がなにを言ってるのかわからないときも、いよいよ面倒くさくなってきたら、わかったような相槌を打って会話を終わらせようとする。
ここまで書いておきながら、“自己中心的”では決してない。
あくまで、“自分が中心”というだけである。
多いのは気ィ遣いだけど、自分なりのやり方だったりするために、その受け手にはまったくもってわからないことがある。でも本人は、それもまた良しとしてるので、特に問題はない。
自分が“いい人だ”と思われることに、やや抵抗を抱く気配がある。褒められると困るという人が多いだろう。
なので、プライドが高いとか根拠のない自意家とか芸術家肌とか言われようとも、それらすべてが自分の基準でしかないので、自分がそうじゃないと思えば、良くも悪くも、それがすべてになってしまう。
つまり、O型の人間というのは、自己中だの自意識過剰だの気分屋だの言われがちだけど、それもまたそれまでその人が育ってきた環境や経験、それまでに自身が興味を持ったことや、そこから得た知識によって作り上げられたものでしかないということ。
この人はO型だから……ってのは、100%通用しない。
O型を知るには、まず、その人の過去を知るべし。
興味の向きを知るのが一番かもしれない。
だから、O型の人間には、自分がO型であるなんてことは関係ない。
- August 29, 2007 2:43 AM
- [ ゲロ古 ]