基本的に俺様はマイナス思考。
なんの用意もなしに人を信じると、結局泣きを見るのは自分。
「人のため、人のため」と自分より人を優先してるようなやつは、信用しない。
どうしてもマイナスの方向に考えてしまう。
とりあえずいろんな可能性を列挙してみる。
- もしこれがダメだったら……
- もしこれもダメで、あれもダメだったら……
- もし全部ダメだったら……
たぶん、異常なまでに不安症候群というやつか、強迫観念症というやつか、対人恐怖症というやつか、潔癖症なのか完璧主義なのか。
それ以上ダメなときの可能性を、自分なりに自分のなかで可能な限り挙げてみる。
いわゆる一つの、保身。
それ以上でもそれ以下でもない。
響きのいい言い方をすれば、“備えあれば憂いなし”というやつか。
つまり、あとの二つ挙げたやつも、そこに通じてるっつー話。
なんの用意もなしに他人のことを鵜呑みにして、それを信じたところで、相手だって人間だもんな。
いろんなことが変化する。
一度信じたものを信じ通せたら、その意思の強さというか、執着もアッパレだ。
でも、やっぱしたいがいはそこまでの強さなんて持ち合わせてない。どうしても責めてしまう。
失敗したときとか自分がイヤな気持ちになる先のことまで考えてなくて、ところがいざそのときが来てみたら、自分だけじゃ抱えきれない不満が沸いてくる。
でも考えてなかったから、自分でもどうしたらいいかわからないし、相手を責めるのも見当違いだとはわかりつつも、やり場のないものは身近なところへ矛先が向く。
そこで出てくるのが、「人のため」ってそれを押しつける人。
そやって自分の優しさを押し売りしてる。
かといって、きっと見返りは求めない。
“自分は優しい”っていう自己暗示的な充足感に浸ってる自分で満足するか、無意識に「恩を売ってる」っていうことの裏付けにしてるか、自分の中身のなさをそばにいる人とか自分が興味を持ってる他人のなかに見出そうとする。
そばにいる人がステータスの高い人なら、自分もそこにいるような気になって同じように振る舞おうとしてしまうのと一緒だ。
自分がない人ほど「人のため」と他人を優先するようなことを言う。
でも、いざ自分についてのことを訊かれると、なにも言えなくなってしまうわけだ。
人のことなら、いくらでも話せるのに、自分のことはなにも話せない。
“人に話すほどのことはない”とかカッコよさげな逃げ道を、ここぞとばかりに持ち出してくる。そういうときの準備だけは万全整えてある。
聞きたがってる人に対して、それを拒否することも、話すようなこともない自分のことなんて聞いても面白くもなんともないからって、その“人のため”を思ってのことなのか?
俺様思うには、自己中心的とかまわりから言われてる人って、まあ、たしかに配慮に欠ける人って意味かもしれないけど、少なくとも自分ってのがそれなりに確立した人って意味でもあると思うわけ。
というより、利己的になれるほど自分自身に対する強さって、けっこう自分じゃ持てない強さだと思うわけ。他人に認められたわけでもなく、自分の、自分自身の判断だけでそこを確立するのって、それができるのって、なかなかできることじゃないと思う。
第一に保身でそれが悪いかと言われれば、それは否。
意外にも、きっと一人ひとりが保身に務めれば、世界はそれなりによりよくなると思う。
でもまあ、呪文のように、そしてそれが美徳であるかのように「人のために」っていう美意識心理というか文化だからなんだろうな。
凶悪犯とか殺人犯とか汚職政治家とか抜きにして ─── そんなの論外。
って、こういうことをいちいち書かないといけない気にさせるってのが、保身の賜物なのだな。
自分のためにそれがいいことだと思ってやったことって、案外まわりにもそう働いてる。
それをまず「人のため」ってせっせと動いたところで、自分のまわりが空っぽになってると、人のほうがその人のその空洞部分を埋めてかないといけない。
そういう人の口から出てくる「人のため」っていう言葉を、どれだけ信用できるかって話だな。
マザー・テレサの言う「人のため」と、イエス・キリストの説く「人のため」と、それぐらいの差がある。
信憑性かな。説得力かな。
いや、密度かな。
それ以上に自分の内容がなければ信じることもできるだろうさ。
でも、まず考える先が自分より他人に重きを置く人の話は、なんとも、“白紙の辞書”を渡されてる感じがする。
- September 9, 2007 2:09 AM
- [ ゲロ古 ]