文章の構造の重要性。
文章とは、内容ではない。
その構造にこそ美しさがある。
どんなにいいこと書いたところで、読みづらければ人は読まない。
芸能人とか自分が好きな人の文章でもない限り、読みづらい文章は人は読まない。
自分のなかのその文書に対する必要性より以前に、読む気が失せる。
ただ、インターネット上での文書構造は、特殊だ。
改行は多めにとる。
余談がないと息が詰まる。
おもしろみがないと全体が退屈に感じる。
横書き。
絵文字や顔文字なども取り入れるとなお人気が出る可能性高し。
フォントの大きさや太さ、色を変えたりして文章自体にも装飾を加えるとおもしろみや臨場感が出る。
文章の書き方には、その人の性格が出る。それがまた、けっこう顕著だ。
たとえばメール。
一つの行にびっちり書き連ねる人がいる。
たとえばブログ。
絵文字がさも文章であるかのように書く人がいる。
たとえばサイト。
句読点もまるでなく、その全部が平仮名だったり片仮名だったりする。
どれも大変読みづらい。
せめてメール。
メールを書くっつーことは、少なくともだれかに出すということだ。
最低限、自分以外の人がそれを読むってことになる。
なのに、びっちりと、ぎっちぎちに詰め込むってのは、どういう見解か?
その書き方は、万人にとって、少なくともその人にとって読みやすい文章などと思ってるのか?
そういうやつは、自分のことしか考えられず、人のことなど二の次、三の次ぐらいにしか思ってないと見ていい。これはほぼ間違いない。自分に酔い痴れてるなんて場合も多いと思う。
以前、今は『スッキリ!』だけど峰さんの番組とかでコメンテイターとして出てた勝谷誠彦さんのサイトを見てビビッた。
まさにそのとおりだった。
コラムニストでもあるらしいのに、あの文章の書き方を見てげんなりした。まま、職業にまでなってる人にとっては、やっぱり記事の内容が命なんだろうけど、見てくれる人への配慮ってもんが一切なかったように感じる。
ケータイで投稿してんのか?
人への配慮に欠ける人間。
ただ、俺様みたいに、小学校の国語の授業で習ったことに従って書いてるだけの人間は、ある程度の枠を必要とする人間だろうな。
文章の最初の行は、最初にひとマス空ける。
会話文に移行する際は、改行して新しい行から始める。
主語のあとは、基本的に読点をつける。
一文章では、平仮名と漢字のバランスは3対2ぐらいがちょうどいい。
自分の個性より、読みやすさのほうが大事……それは、公開してる以上当然だ。個性は、あくまで内容のなかに詰め込むのみ。
とはいえ、インターネット上でこそ個性っつーのが重要らしい。
ネット上の文章の書き方っつーのは、たぶんそのほとんどが2ちゃんねるからの流れをくむ。
でも、それをそのまま取り入れてたのでは、ほかの人と一緒でつまらない。あるいは、自分が“2ちゃんねらー”と思われるのが癪。
そんなとこから、独自の書き方を作りだす。
あと、顔文字を多く使う人ってのは、往々にして“自分の気持ちを文字として表現するのが苦手な人”と感じる。
顔文字は便利。
でもそれは、それとしてごまかせてしまう。
言葉で表現すれば、きっともっと複雑なはずなのに、顔文字ではただの“笑顔”としか伝わらない。
まあ、たいして伝えたいとも思ってない感情なのかもしれんけど、でもそれを続ければ、どんどんそこに依存するようになってくだけって感じてしまう。
自分の感情をうまく表現できなくなってしまう。
俺様は顔文字が嫌いだ。
まあいいさ。
人の文章の書き方にまで口出すつもりはねぇ。
ってか、そんなことはどうでもいい。
ただ自分の文章力を上げたいだけだ。
でも、文章の書き方には、性格が出るっつーのは、これ確実だ。
自分の文章は、一度書き上げたあとにもう一度見なおしてみるってのも、文章を書くっていうなかの大事な作業の一つだと思う。
- September 21, 2007 11:51 PM
- [ ゲロ古 ]