ふた通りある天才。
計算的天才と、感覚的天才。
そのふた通りの天才がこの世の中にはうようよしてるんだと思った。
人間には計算する脳みそと、感じるという感覚があるわけだ。
そのどっちかがかなりの勢いで秀でてしまったのが天才。
たとえば、絵。
そう呼ばれるほどのものを感覚的にサササッと描けてしまう人。
別にそうなるように計算したわけでもないのに、気づけば、あらゆる点において “ 黄金比 ” で描いてたみたいな?
自分じゃそんなこと考えてもなかったけど、そう言ってくれるんだからきっとそうなんでしょってこと。
で、また、それを発見した人も同じ天才と言えるということ。
その “ 天才 ” と呼ばれちゃうような人が、うまいこと説明のつかない感覚的なものを計算に計算を重ねて、その人が “ 天才 ” たる由縁を築き上げるわけだ。
その法則性だったり、理由だったり、それをそうするにはどうしたらいいかとかっていう方法を見つけて、
それが “ 天才 ” と呼ばれる条件っつーか法則なら、その “ 黄金比 ” ってやつ自体を証明しちゃったので、むしろ、自分で “ 天才 ” を作れちゃうとも言えるわけだ。
でもってそれぞれのそれが、凡人に基準をおいて頭一個分なんて範囲にはとどまらず、首までズズーンと突出してしまったって感じ。
イメージとしては、なんとなくこんな感じになった。
人間としての存在は一人なんだけども、そのなかのどっちかが、いつともなくこんなふうにバビーンと覗くわけだ。
もともとは凡人。いや、ずっと凡人。感情もあり、計算もできる。
ただ、それがどっかでなんかがブチュッとつぶれて中身がうまいこと融解して分裂するわけだ。
凡人のなかの天才たる部分がそのとき覗くわけだ。
要は、偏りの極みか。
そうだ、『デスノート』を例にあげてみよう。
八神月くんとL。
やっぱだれもがそうだろうけど、いや、大好きで大好きでって崇拝者は “ 様 ” なんてつけるかもしらんが、“ L ” の敬称は略。
俺様も月くんより、Lのほうが好きだ。
でも、L は L 。
キャッチコピーにもなってたけど、やっぱ “ 天才対天才 ” なんだと思ふ。
そうだ。
彼らは違う。
八神月くんの行動は、なんだかいつもその相手の “ 人間心理 ” を読んだ上に成り立っていた。それを常としていた。
でもLは、ものっすごい細かな部分までを推測した上での裏づけによる緻密な計算で行動してた。ニアもそう。あの小僧は、さらに慎重だったな。で、その推察もまた半端じゃねぇからできることなんだろうさ。心理ってのを完全に切り離して考えるらしいからもっと質が悪かった。
あえて “ 論理 ” っていう言葉を避けたのは、そこはご両人の共通項だから。
だから最終的には、たまたま味方したっぽい感じに描かれてる “ 運 ” で決まったわけだ。そうじゃなきゃあれ、月くんの勝ちだろうな。
人間相手なら、その心理というのをよりリアルに感じ取れるやつが勝つ。そりゃ当然だ。人間は感情に生きる。
だから月くんは賭けも多かった。まあ、Lも賭けに出たことはあれども、やっぱりがっつりとした裏づけあっての行動のほうが多かった。
と同時に、思いっきり人間なのも月くんだからなんだろうな。
だからなんだろうな、見てておもしろいのも月くんだな、やっぱ。
でも好きなのがLっつーのは、徹したところにも感情が見え隠れするから。
まま、偏るっつーことは、なんだかんだでどっちもあるわけで、完全に消えるなんてこともないから、結局は “ 慣れ ” っていうのも必要なことだ。
経験は絶対だ。
ただ、天才というやつは、凡人のそれよりもはるかに必要とする量が少ないってだけのことだな。で、それ以上に熱中するわけだ。
きっと天才とは、その集中力。
そして、ふとあるとき、それを手放せるその勇気。
だからきっと “ 変人 ” なんて呼ばれ方もするんだろうさ。
すっげぇ集中してたかと思いきや、次見たときにはテーブルでぽつーんと椅子に座ってボケ~っとコーヒー啜ってたとかな。
感覚的にいとも簡単な感じでできちゃう人が天才で、でまた、それをすっげぇ頭使って考えて考えて考えまくって解き明かしちゃう人も天才。
なんかすっげぇもの発明しちゃう人が天才なら、またその取扱説明書を書いちゃう人も天才なわけだ。凡人にわかるように “ 天才 ” を証明できるんだから、それはそれはすげぇことなはずなんだ。
“ Easy ” と “ Defficult ” の極地が天才なわけだ。
するってーと、かのレオナルド・ダ・ヴィンチっつーのは、天才と凡人の極地ってことになるな。
──── つまり天才か?
自分で発明して、自分で取扱説明書こさえて、それを凡人にも理解できるような形で残したわけだ。まあ、広めたのは別の人間だけど、人間にそうさせたわけだ。
そうさせんだ。強制がなくとも、“ そうさせる ” わけだ。
きっと当時はそう呼ばれてもいたんだろうけども、ただの変人にはとどまらなかった結果が今ってことになるのかな。
いや、レオナルドはただの変人にとどまらず、きっと “ 変態 ” だったはずだ。そうに違いない。
だから時代を超えてさまざまな人に興味を持たれ、そして魅了する。さらにそこから天才が生まれ、天才を殺すわけだ。これは “ 変態 ” にかかってるんじゃない。
──── いや、人間だな。
つまり、人間の極みがあれか?
なんかやだな。
あ、そうだ。
あとこれもけっこう重要だ。
天才と呼ばれる人のその才能ってやつを、両方バランスよく備わってるのが、凡人なんだろうなということに気づいた。
ただの人。人々。
だから世界中を騒がす代表雑誌のタイトルにもなるっつーわけだ。あの名前つけた人、すげぇな。
偏らず、感覚だけに溺れず、かといって考えすぎれるわけでもない。
凡人の両極が “ 天才 ” 。
取扱説明書を読みながら、それを理解して、いつの間にか使えるようになるわけだ。で、そのうち使いこなせるまでに学ぶ。
なんら解答なんて得られなくても、それを得る必要なんてものもなく、たとえそれが完璧じゃなくても、感覚的にいいものはいいと評価できりゃ、それでいいわけだ。
というより、なにより “ バランスのいいもの ” を好むわけだな。
とどのつまりはこういうこと。
天才とは、凡人。
凡人が理解できなきゃ “ 天才 ” なんて呼ばれねぇんだわ、結局。
認められなきゃ、そいつはただの “ 変人 ” なわけ。
……ああ、なんだよ、それ。つまんねぇ。
- February 29, 2008 9:08 AM
- [ 天才 ]