オリンピックには“魔物”がいると言うけども、どうやら俺様が捕まったらしい。
オリンピックおもしれぇ~……
そう、これは先週の日曜日に書こうと思ってた日記なの。書こう書こうと思ってて、オリンピック観ながら編集作業してたわけだ。その後、結局歌のほうにのめりこんでしまったという始末。
スピードスケートのショートトラックが特にヤバい。バッコリ熱い。
いいねぇ~、ああいう駆け引きのあるスポーツ。そういうのお兄さん好きよ。
でもなんか競技自体を見てると、すっげえ小ざかしいようで、その駆け引きだけでそうとうなエネルギーを消費するんじゃないかと思われる心理戦。
テレビだと余計に小さな動きしか見れないもんだから、ひさびさに1度は生で見てみたいと思ったことだ。
しかし残念……
なんかすっごい囃されてた割には、メダルが全然取れてないとのことらしい。
ってか、昨日テレビでチラッと見た清水さんの銀メダルが初めてじゃないのか??
違うのか??
まあいいさ。
それまでの努力だとかをムダとは言わないが、どうせ競うんなら、てっぺん取ってナンボでしょう。きっと選手の人たちもそれぐらいの気持ちで挑んでんだろうし。
テレビとかでよく聞く“メダルは取れなくてもよくやった”とかは、ホント気休めみたいにしか聞こえない。
まま、テレビで顔出ちゃってるわけだし、なかなかそんなこたぁ~軽々しく言えないんだろうけども。
いや、というか、みんながみんなそうとも思ってないけどさ、別にスポーツやる人の最終的な目標がオリンピックってことでやってるわけじゃないよな。
まあ、競技によってはそうなるかもしれんけど、バスケならやっぱ日本人からでもNBA行ってやってみたいだろうし、サッカーもワールドカップとかだろうしな。
とはいえ、もし僕がプロのスポーツ選手だとしたら、やっぱそれら全部のてっぺん取りたいけどな。メダルもカップもシャンパンも、葉巻も女も地位も名誉も全部ぜんぶ。
なんだかスケートだと、韓国の選手団がメチャメチャぶっちぎりっぽい印象を受けたのだが、あれってなんか国技とかなのか??
まあ、国技だからって強いとは言えないけども……関取然り。
“藍、青より出でて、青より青し”ってやつだな。それでいて美しいわけだ。
韓国ってスケート大国なのかしら。
でも日曜から観れてないってのが現状なり。
ここんとこ1日3時間半の睡眠て……
芸能人さんで言えば、次長課長さんクラスらしい。昨日の『情報ツウ』のトークツウで言ってた。
でも、次長課長さんたちより30分ぐらい多いみたい。幸せ。
にしても、どぉ~してこう音楽ってやつはキリがないのかねぇ~。
歌も“こうこうこういう枠のなかでやってください”っていう電線みたいのがあれば、とってもラクなのになぁ~……
ミュージシャンの人たち、よくそんななかで“これだ!!”って感じで出せるなぁ~と、ホントそこに関心する。
いつもちょっとダメかなってなぐらいがいいのか??
しかし、それがないからこそ楽しいんだけど。
誰もができるってのが重要なところなんだろうさ。
結局限られた人だけってのじゃ、きっとそのうち、それをやってる側さえ虚しさを憶えるんじゃなかろうか??
目先のことにとらわれる人は別として。
今きみが、本当にしたいのはなに??
今きみは、本当にそれでいいの??
なんかこういうキリのない疑問というやつが好きらしい。
だからこそ飽きない。そこがいい。
いつも先を見ているような気になるし、実際そうなんだろうと思う。
現状維持や今あるそれに満足や幸せを感じるのも大事なんだろうけど、やっぱり自分がそれ以上を求めていなきゃ、手にできない。もしかしたら、それが見えもしないのかもしれない。
少しでもそこに近づけてるか??
より良いもの。
より良く。
最高の今より、もっと最高の今を。
こないだ、“歌バカ”と言われた。僕のハートが暑苦しいと。
なんかちょっと嬉しかった。
技術や知識、そういうのは教えてもらったりできるし、結局慣れだったりするけれど、そういう“暑苦しいハート”っていうのも1つの才能だとその人は感じたんだそうな。
冷めてるってのは、たしかに嫌いだ。
熱くならないというか、熱くなれない人は、どうも好きになれない。
なんか熱くないってのは、冷えてもないって気がする。
それだけでもうその人への魅力を感じないと、まるでそれが風化するみたいに感じてしまう。
これもハートが先行してるってことなんだろうなぁ~と、また思う。
でも逆に、なにごとにも冷静でいるっていうのも、自分の理想とするところを犠牲にしてまで手抜きができるっていうのもまた、1つの才能なんだろうなとも思う。
冷静でいることも必要だけど、熱くなることも必要だと思う。かと言って、どちらも絶対とは言えない。
ただ、それらが心のなかに混在してて、初めて、その中間ぐらいなイメージの“あったかい”っていうぬくもりが生まれるんだと。
あと、“ハートが先行してるのはもったいない”とも言われた。
そんなご指摘は、初めてだった。なんとなく衝撃的だった。
なにかと才能やセンス、ただ好きだっていうだけでもダメだというように、僕には基礎っていうのがないと……まさにだ。
やっぱわかる人にはわかるんだなと、ちょっとまいった。
実際、僕の身近なところには、まったくもってそういう人がいなかったりする。
僕に意見したり、なんというかかんというか、なんか諭すようなことをしたりとかする人がいないわけだ。
やっぱこれも普段から“俺様”とか言ってるからなのかねぇ~……なんなのかねぇ~。
まあいいや。
話が逸れた。こんなこたぁ~公開するようなことでもないしな。また誤解を招きそうだし。
サビ作りはセンスとのことなので、とりあえず今はひたすらに僕のなかのそれをフル稼働させるのみだ。
あ、そうだ。
誤解といえば、前に、“この日記で書いてることって、たまにおれのことだろ。言いたいことあんならちゃんと面と向かって言え”と言われたことがあった。
んなこたぁ~ない。即“思いあがんな”と返した。
なんでこうちょっと批判的なことが書いてあって自分にちょっと当てはまると、小さな疑念からすぐ自分のことだと思うのか。
僕は、そんなことは、ホントよっぽどのことがない限り人に言わない。“おれのために言ってくれ”とでも言われない限りないな。さすがに我慢の限界突破とかじゃないと口にしない。
それはもうほとんどあきらめに近い。なんというか、言っても聞いてるフリだけで耳を傾けない感があるから。
なんか話してるとわかっちゃうし、その後のその人の行動見てればわかるからなぁ~、こればっかりは。
だから最初は、話してると、その人を責めてるというか、けっこう説教口調になると言われるけど、そういう人にはまず言わなくなってく。
もうなんも期待もしなくなるし、その人に対してなにも伝えることがなくなってく。いつしか伝えるべきことすら見失ってしまうんだよなぁ~。
やっぱ会話って、そこにある人間関係をはかる上で、重要な要素の1つなんだよなぁ~。
しかし思う。
僕にはそんな気はないのに、聞いてる側がそう聞こえるっていうのは、その人のなかでちょっとは耳が痛い部分があるからなんじゃないか?? だから自分が説教されてるように聞こえるんじゃないか??
まままま、たしかに人の粗探しは得意だし、そういう部分てやっぱり、いいところよりもずっと目につくもんだけどさ。
いいところって意識して探さないと、そう簡単に見つけられるもんじゃないと思う。自然と見つけられた人のいいところって、けっこう自分と共通する部分だけなんじゃないかなと。
まあ会話だし、話し方と聞き方にもよるんだろうけど、そう思う。
僕としては、笑いながら話してるほうがよっぽど怖い。
あ、そういえば、なにかと手を抜くやつも嫌いだ。いや、大嫌いだ。
自分がイヤだってだけで、“がんばったんだけど……”とか拭けてない尻をさらしながらそれをごまかそうとしてる感じが許せない。
うん、嫌いというか、許せない感じだな。
その時点で、なにも告げずに僕の世界から魔法使いのごとくサッと指パッチンで抹消される。
そういうやつは、それこそもうなにも言わなくなるな。
人をまるごと受け入れることはできても、すべてを理解するのは難しい。いや、それは不可能だと、あえて断言してみようか。
人を受け入れるのに理解なんて必要ない。
もしその人に対して“この人のことならなんでもわかってる”と感じた瞬間、それこそ、その人のことをなにもわかってないって証。
その人に対して、なにかについて勝ってるとか、自分のほうが上だと感じた瞬間、それが負けへの第一歩であり、下へ向かう階段の1段目に足を乗せたのと同じこと。
でもこうやって、人の気持ちってやつを頭でキリなく考えて、あたかも他人事ともとれそうな言葉というやつで表そうとしてることそれ自体、一番冷めてるのかもしれないな。
人に人のなにがわかろうか。
人だからこそ人を理解できるというのに。
人間はみな、未完成だ。
でも、不完全なものとしてもう完成されてる。
人間がこれ以上進化しても、退化しても、人間はもう人間じゃなくなるだろうから。
陰口だとか悪口だとか、普段たまった自分の主観でしかない憂さ晴らしのために、わざわざこういう場を借りたり使ったりなんてしないさ。ましてや公開なんてしない。したくもない。
むしろ、そういうのを言葉にしちゃったらおしまいだな。
本音っていうのは、自分以外だれも知らなくていいものだと思ってる。
素直な気持ちはちゃんと伝えるべきだけど、それを人に話す必要はないし、自分だけがわかってれば充分だと。
単なる言い方の違いってだけと聞こえるかもしれないけど、その2つの言葉の違いのニュアンスで、僕の伝えたいことはわかってもらえると思う。
ここはだれかになにかを伝えるために書いてるわけじゃない。僕のそれは『Dear』だけで充分だわよ。
このTakuya's Diaryは、あくまでその日、あ、いや、ほとんどが前日だったり先日だったりするけども、そのとき思ったことだったり出来事の並列でしかない。
そういう鬱憤の解消は、バイトの行き帰りで充分間に合ってる。
難しいやな、人間関係って。
言葉って。
気持ちって……
“知らなかった”じゃ済まされないぐらい、いろんなことが発達して成長して、それがどんどん普及して、それを作った人のほうがそれに追いつけなくなってきてるんじゃないかな。
まあ、もし読んでいくなかで自分と重なる部分があったなら、いいことはいいこととして、いやなこともいいことに変換していってほしいな。
読み物ってきっとそういうもんだと思ふ。
だれが傷つけ合うために笑い合うか。
だれがその心を踏みにじるために心寄せ合うか。
……雨だ。
ここんとこずっと降ってる。
景色はもう5月を映してる。
たまに人の気持ちやその感じ方に触れることができない。どんなに手を伸ばしても届かないときがある。
たとえば、道端で立ち止まってどこか遠くを見てる人。
でもそれは、その人と同じ景色を見れないだけ。
そして、その視線の先に顔を向けて同じ景色を見たときに、決してその人とは同じように感じられないだけなんだ。
- February 15, 2006 6:48 AM
- [ ゲロ古 ]