バイトの人のふとした言葉をピックアップ。
「仕事と趣味だけやってる人ってダメだと思うんだよね」
まあ、前後関係は面倒なので割愛。
「なんで?」
「もっと自分を高めるようなこともしてないとダメだと思う」
「たとえば?」
「資格とるために勉強するとか、習い事するとか」
「そこにはダイエットとかも含まれるのか?」
「うん。だって高まってるしょ」
「まあねまあね。モテたいとかもあるだろうけど、ダイエットたって結局は自分のためだもんな。病気とかもあるし」
「うん」
「でもさ? 趣味もダメなの?」
「だって、あんなの遊びじゃん、遊び遊び。それやってたってなんにもならないじゃん。時間のムダムダ」
「あぁ~、遊びねぇ~……」
「なんも自分高まってないじゃん。好きでやってるだけでしょ?」
「まあねぇ~。趣味は遊びかぁ~……へぇ~」
ん~、なんか考えた。
趣味ったって、いろんなとらえ方あるんだろうけどなぁ~。
趣味が高じて仕事になる人だって多いわけだし、いつの間にかスペシャリストになってたりするわけだ。“好きこそモノの誉れなれ”だったか“上手なれ”だかって言葉もあるしな。
好きじゃなきゃ続けるってこと自体が苦痛になる。続かなきゃ、なんの積み重ねにもならない。それこそ時間の無駄遣いって気もする。
まあ、ムダって言い切っちまうのはちょっとおかしな気もするけどさ、続けてるとなんかかんか自分のためになってる。いつの間にか。
いつの間にかムダじゃなかったって気づくわけだ。
積み重ねることが偉いとかすごいとかは思わないけど、それはそれでけっこう自分のなかで重要な位置を占めるようになってるわけだ。
結局なにが言いたかったのかって考えると、なんか自分がやったことに対する“見返り”というか“報酬”的なものがないと意味がないってことなのか?
そうなるとよぉ~ ── 俺様が今やり始めた“Movable Type”もその人からしたらムダって言われそうなもんだ。
実際、んなことは言われないだろうし、“いや、それは高めてる”とか言われるだろうけど、自分的にはそうでもねぇ。
ズバリ、楽しいだけだ。
ただな?
その人の口ぶりだと、そう聞こえたわけだ。
なにごとも“自己満足”の範疇じゃ、結局“趣味”と変わらないみたいなニュアンスにさ。
頼まれてサイト作って報酬もそれなりにもらってはいるものの、始まりのきっかけは、あくまで趣味だ。
HTMLもCSSもMTも、趣味の程度から始まった。
最初はそう、これ。
“それならもう自分で作ろうや”
そこに尽きる。
やっぱ個人発信なら、インターネットっつーのは素晴らしいツールだと思う。これ以上のものなんて、今んとこほかにないんじゃない?
自費出版なんて、お金がなきゃ現実としては、そのためにお金を貯めてたりとかしない限り、不可能に近い。前にけっこう調べてみたりもしたけども、現実的な値段じゃなかった。あれって20部とか50部とか少なけりゃ少ない安いってもんじゃないらしいのよ。
その時点でもう俺様かなりの勘違い。
とはいえ、どうこう言っても、なんだかんだでこうだ。
解き放つ。
俺様、言い放つ。
“なにごとも、きっかけなんて、120%、どうでもいい”
そこにこだわってると、結局いつまで経ってもそこから抜けだせないでいる。なにも始めれない。
それを始めるためのきっかけなんて、あとになればいらなねぇのと一緒。ちょっと前向きになると、インタビューのときの話の種になるかなぐらいなもん。それは人との出逢いに関しても一緒だと思う。
これは自分じゃなきゃ、当事者になってみなきゃ、それを非難する側になるかもしれん。それは否応なくつきまとうし、しょうがないとは思う。
でも当事者にしてみれば、“今こうして幸せに暮らせてんだからいいの”ってなってるはず。
きっかけとかその理由が必要で、こだわるようになるのは、それが壊れるときでしかない。人間関係でいえば、別れのとき。それだけ。
で、それはまた“しょせん趣味で始めたことだからね”っていう逃げ道にもなるわけだ。
便利だねぇ~、趣味って。
しかしながら、きっとその人が言いたかったのも、そんなことじゃ~ねぇんだろうな。
物事、損得だけで勘定するのってダメじゃないとか、まずは自分だよとか……
きっとこう、もっとさ、なんつーの?
もっとシンプルで優しいことなんだろうな。
“ちょっとがんばりすぎじゃね?”
そんな感じかな。
とはいえ、この話が出たのは、その前提として“そんな男はダメ”ってことなのよ。
勝手に話を広げたのは俺様だ。
なので、俺様のとらえ方もかなり広い。
なんでこう俺様っつーのは、もっと具体的で絞り込んだ話ができないのかね。
自分にできるイメージが抽象的すぎんのかね。
もやもやしてることは、結局、もやもやしてるもんでしかないのかな。
いや。
俺様、気づいた。
俺様ってばきっと、なにかと人の無意識のほうに働きかけようとしてるんじゃないか。
意識してできることは、結局その人の意識次第でしかない。人がどうこう言えるもんでもないし、言ったところでその人の意識が変わらないと、なにも変わらない。
でも、無意識っつーのは、人から言われて初めて気づくことが多い。いや、きっとそのほうが多いと思う。
本や映画を観て、そのとき初めて自分のなかにあったものに気づくことってことも少なくなかろうて。
その本の文章で、初めて自分のなかの言葉が出たとか、その映画のなかの誰かの言葉で初めて、自分の言いたかった言葉を聞いたとか。
自分でも気づいてないことを見つけさせられる。見せつけられる。
ソクラテスの“産婆術”か?
いや、それとはちょっと違うか。
「は?」とか「全然」とか、突然ムキになられたりとか、けっこうそういうことがあるのは、きっとそのせいだ。
うん、そうだ。
いやぁ~、俺様って前向きだな。
めでたし、めでたし。
- May 10, 2007 2:21 AM
- [ ゲロ古 ]