攻めてねぇ……
“日記で攻める”
そのはずが、全然攻めてねぇ……
まあ、自分でもその“攻める”って言葉の意味まで考えて、どこでどこをどう攻めていこうとかの戦略もあったわけじゃ~ない。
ただ攻める。
攻めたい。攻めていきたい。
というのもさ?
いやぁ~、なんかやっぱインターネットじゃん。
インターネットってさ?
どうしても引っ込み思案になっちゃうじゃん。
“ネチケット”だの“不特定多数”だの、なんかそっちばっかり言われて自分の言いたいことって、実際には言えてないと思うのよ。匿名性が高くてそれは問題になってて、そこが利点だって言われてるのにだ。
問題にはなってても、結局はそれって自分の意識でどうとでもなることでしょ。
でもそれが問題になってそこを突かれると、匿名だから言っていいことと言っちゃいけないことを意識しすぎると思うわけ。
匿名な上に、さらに自分のことも隠してるみたいな?
つまり、自分はそこに存在してないも一緒だと思うわけ。
日常のなかだとさ、けっこういろんな理想論が飛び交ってるし、人によってはそれを実行できてる人もいるかもしれんから、言葉なんてって“言葉”ってのを軽く受け止められるもんでしょ。
面と向かっていると、言葉はある程度、しぐさだとか表情とかで補えるわけだ。
でもインターネットだと、そうもいかないわけじゃん。
写真とか、今じゃ動画なんてものも使えるけど、なんだかんだで言葉がすべてだなと思うのよ。
その言葉に含めた意味合いなんて、さらには真意とか裏側に潜ませた意味まで考えると、実際には本人にしか通用しないわけだ。
文章の句読点がいちいち顔文字とか絵文字とかにするわけにもいかず、実際んなことしたら読みづらくて仕方ねぇ。
ブログって、結局ほとんどが日記だと思ってる。
でも、日記なら日記なりに、どこどこ行って、なにを見て、なにを買って、帰ってきてご飯を食べたとか、事実だけ書いても、日記といえど日記にすらなってないと思っちゃうんだな。
それに対して自分がどう感じたかとか、なにを思ったかっていうほうが大事だと思うのよ。
ん?
大事?
なにが大事かって?
おっと、いけねぇ。
なにが大事かはその人によって違うか。
ん~、じゃあ ── 読み手側にとってとでもしとこうか。
知り合いがブログを作りました。
なんか書きました。たとえばその日に行った外食のことにしとこうか。
“今日はこのお店に行った。いつも行くお店とはちょっと気分を変えて、ちょっと調べて出てきたお店。日本橋の≪常口≫を右に曲がって、少し行ったところにあるらしい。で、入ってみたら、内装はすごくシンプル。でも落ち着く感じで、大人の隠れ家的な雰囲気。食べたのは、シーフード盛りだくさんなパスタ。行列ができるほどのお店っていうだけあってすごく美味しかった!!”
多少省いてみたものの、実際にはもっと読みごたえのある長文だ。
って言っても、架空の知人で架空のブログです。
なんだ?
また読みたいとは思わないな。
自分がそのお店のこととか美味しいパスタのお店を調べてて出てきたレビューとかなら、また行こうとか、ほかのお店のことも読みたくなるだろうと思う。
そう、“レビュー”ならな。
やっぱ知人としては違うのよ。
で、おまえはどう感じたのよ?
それに尽きる。
だれが読んでるかわからないから書いていいことといけないことっていう基準は、やっぱメチャメチャ難しい。
まあ、そこまで規模のデカいこと書ける自信はないけど、人種や国が違えば、考え方も物事のとらえ方は違って
当然だからな。
でもだからって、そこにとらわれすぎると、結局始めたはいいけど、なにも書けないっていう事態に陥っちゃうと思うのよ。
自分のことは書かないってなると、やっぱりネタ? 自分が見られたくない部分でのおもしろこと?
それがなきゃ、なにも書けない。書かない。それでそのまま書かなくなる。
多いだろうなぁ~。
友達とかに、そんなに暇ならブログとかやってみたらって言うと、たいがい決まって返ってくるのは、こうだ。
“書くことない”
秘密主義?
そんなに秘密にしたい? そこまでの秘密主義なの?
ってか、自分のことなんて書いても、なんもおもしろくないって思ってる?
自分のことなんて、だれも知りたくないでしょうとか思ってる? っていうか、知ったところでどうもしないでしょうって?
別に人に公開するほどのこと起こらないし、誰かに読んでほしいとも思わないし、そんなにおもしろいこと書けないしってか?
まま、実際そうだろうな。
普段でも、その日あったこととか事実しか話さない人ってのがいる。
たとえばメール。
“今日ラーメン食べてきた。こないだ言ってたお店。葛飾区の美味しいっていうお店。ねぎ味噌チャーシューメン。すごいボリュームで食べきれなかった”
俺様としては“ふぅ~ん”だ。なんて返事したらいいか困る。
自分の手帳に書いたりする日記ならいいさ。
でもメールだ。書き手と読み手が一緒っていうわけじゃねぇ。読み手が自分以外にもいるわけだ。というより、読んでくれって送ってるわけよ。
で、返事が欲しいわけだ。
まあ、ただ聞いてほしいっていう場合もあれど、なにかしらのアクションが欲しいから送るわけだ。
なら、もうひと展開。そこで読み手としては、もうひと展開欲しい。“美味しかった”とかっていうひと言が添えてあれば、それだけで全然違うだろうと思うのだな。
まあね、そこは“じゃあ今度連れてって”とか、読み手の腕ってこともあるんだろうけどな。
“だから何?”ってことになってしまうわけだ。
で、ブログとか公開してるもんだと、それがさらに重要になると思うわけ。
“また読んでみたい” ── そう感じない。
それがやっぱ公開してるもんとしては、致命的だと思うのよ。
なもんだから、コメントもつかないし、なんもアクションもなく、やってて自分でもつまんなくなって、そのまま……みたいな?
悪循環とはちょっと違えど、“退屈”すら月別アーカイブに連なんない。
って俺様、自分でなに言っちゃってんの?
毎回毎回こんな長文書いてるわりに、コメントだって、立川談笑さんしかもらってないじゃん。
んじゃ、俺様は今、退屈?
いや、そうでもないさ。
でもよ?
逆に、おもしろくなきゃ公開しちゃいけないってこともないじゃない。
普段の生活でだって、おもしろくなきゃ友達になれねぇってこともない。
って、別にブログとか書けってオススメしてるわけでもない。
いいよいいよ。
あとからあとから沸いてくること書いてたらキリねぇわ。
ひとりの人が書いたものを、たくさんの人が読むわけだから、読み手側も、逆にいろんなこと考えて読んでると思うわけ。
ましてや、実際に知ってる人もいるわけだ。
実際にその人のことを知ってる人、実際には知らないけどインターネット上では知ってる人、実際にもインターネット上でも知らないけど、そのブログは読んでるって人、さらにはたまたま見て一度きりって人。
いろんな人が混在してるわけだ。
書き手が匿名なら、やっぱ読み手側も匿名なわけだからな。
どちらも隠れてんだから、隠れてるってことを自覚してると思うわけ。
かくれんぼでも、鬼は鬼、隠れてるほうは隠れてるほうで、どっちもその立場が織り成すドキドキを感じてる。
もしなんか読んでて違和感があったり、傷ついたりしたんなら、やっぱお互い書いたのも読んだのも人だしさ。コメントとかあるわけで、さらにはインターネット上なんだからメールもできるわけだ。
ってか、言葉で傷ついたんだから、言葉でわかり合えばいいじゃん。
実際にはそう簡単にはいかないかもしれないけど、それができるのが人間だと思うのよ。
だから書くんであって、それを公開するんであって、どう感じたかとかを人は読み取るんじゃねぇのかな?
で、そこに自分はどう感じて、どう思ったかを重ねるわけだ。
自分のこと言わないからダメとか、なに考えてるかわからないからダメとか言うつもりはないけども、少なくとも日記とかブログとか、なんか公開してるんなら読んでもらいたいさ、そりゃ。
でも、そこで腰引けてたんじゃ、やってても仕方ねぇのかなと思うわけよ。
あら?
結局これってなんなのよ?
攻めたい。
攻めたいのさ。
読んでくれた人のなかに、なにかしらの感情を起こしたいのよ。ムーヴメントっつの?
すっげぇちっちゃくても、なんか物議をかもすようなこと書きたいのよ。
あれは良くてこれはダメとか、んなことにとらわれてないでさ、自分の思ったことを書きたいわけ。ドバーッとぶちまけたいのさ。
だからあえて、悪い言葉を選んでみたりする。必要な言葉を1つ2つ抜いてみたり、繊細でデリケートな部分に突っ込んでみたり。
でも実際そうもいかねぇな。
やっぱ俺様もビビッてんだよな。
いちいち“俺様”って書くあたりが小さな反抗なのかな。
たとえば、“結局、女なんて、みんな一緒なんだよ”なんてタイトルで書いてみてぇわ。
え?
書いてみる? 書いちゃう?
書いてみちゃう?
“俺様論”
まあいいや。
これまた長くなりそうだ。やめとこ。
いや、いつか改めて書いてみよう。
まあ、隠すこともさらすこともできるのが言葉だからな。
“あいつはなに考えてるかわからねぇ”って思ったところで、別に人間関係築けないわけでもないし、そういうやつをダメとも言わない。
それはそれでいいさ。
でもさ。
攻めたいのよ。
読んでくれる人を攻めたいのよ。
もし自分でブログとかやってる人なら、そのブログで“自分ならこう思う”みたいに書いてくれるようなこと書きたいわけ。
よし。
俺様、攻めるよ。
攻めてくよ。
どんどん攻めてくよ、おれ。
- May 11, 2007 2:24 AM
- [ ゲロ古 ]