近ごろの巷では、その人との話しのきっかけとしてまで持ち出してきて “ S ” か “ M ” かを見ようとする。
話のネタの一つとして、あるいは、自分との共通点、つっつきやすさなどの指標とする人間もいる。
そして、平気で「 S だよね」とか「 M だよ」とか言い、言われ合う。
サディズム(英語:Sadism)は、加虐性欲(かぎゃくせいよく)ともいい、相手(動物も含む)に身体的または精神的に苦痛を与えることによって性的快感を味わったり、そのような行為を想像したりして性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。極端な場合、精神的な障害とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。サディズムである人間のことを「サディスト」と呼ぶ。加虐性淫乱症とも呼ぶが、これは変態性欲の通俗概念などと同様、多分に差別的な呼称である。サディズム - Wikipedia
マゾヒズム(英語: Masochism)とは、肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。被虐性欲とも言う。極端な場合には、精神的な障害とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。
マゾヒズムの嗜好を持つ人を、「マゾヒスト」と呼ぶ。俗語で「マゾ」と呼ぶが、マゾヒストとマゾヒズムの両方の意味がある。被虐性淫乱症とも呼ぶが、これは変態性欲の通俗概念などと同様、多分に差別的な呼称である。マゾヒズム - Wikipedia
どうでもいい。
んなこたぁ~、どうでもいんだよ。
『ウィキペディア』でなにを言おうが、ウィッキーさんのペディキュアになにを描こうが、どうでもいい。
それはだいたいが、どっかの本に載ってることだったり、どっかのだれかが言ったことを、だれかのためによかれと思って、どっかのだれかがやってくれたことだ。
違う。
俺様は、違う。
最近の人たち ──── 勘違いしてくれるな、若者たちという意味じゃ~ない ──── は、ホント、お笑い番組でも見るがごとく、なにも考えないで “ S≈S ” であり、“ M≈M ” であれば Okay とする。
たとえそれが、どんな状況であれ、関係は、ない。
いろんなとっから入ってくる情報すべてがごちゃ混ぜになって、その全体像としての印象を全部そこに当てはめてしまう。
否。
否である。
否ある。
それは否あるよ。
“ 加虐性 ” は、相手に苦痛や拒絶感を与えること、そして強要、命令。
それが “ S ” であり、“ M ” は、その逆。
ちゃんちゃらおかしいぜ。
嗜好にだって TPO っつーのがある。
性的なものであれば、それは似てはいるけど別もんだ。ただの人間関係においてなら、それはなおさら。
たとえば、どんなに相手がイヤなことをしてきても、その人のことを好きでいつづけられるってのは、自分が “ M ” だからっていうのとは違うじゃない。
自分のなかで好きだから許せるっていう理由づけが巻き起こったり、こんなことも許せないんじゃダメだとか、あるいは他人の目がそうさせたり、それ以上に嫌われたくないとか好きだからっていう言い訳をもって我慢するっていう感情のほうが勝ることもあれば、人間だれしも、同じことを別の人がやれば感じ方も違うっていうことが多い。
また、それを相手も本気でイヤがってるわけじゃないんだとか、許すってことは嫌いじゃないんだとか、特になにも言ってこないから、これはやってもいいことの範囲内なんだとか、そういう勘違いをして、それがなんか心地よかったりしたとて、自分が “ S ” なんだっていうのとも違う。
好きな人に、まるで舐めるような手触りで尻を撫でまわされれば、それは官能的なマーベラス・タッチ。そうじゃない人からされれば、それはただのセクハラ。
そして、それを「ホントはいいんだろぉ~? 体はそう言ってみたいだよ?」とか強要しつづけるのは、ただの “ キモ野郎 ” でしかないわけ。エロゲやりすぎの、AV 観すぎの、人形と人間の区別がつけられないやつ。
また、受けつづけるのも “ 虐待 ” でしかない。
違う……違うんだよ!! そうじゃないんだよ!!
いちいちたかが “ S か M か ” ぐらいでそんなムキになるなよとか言うなよな。
ちょっとした人と人とのとっかかりだろうが、ネタの一つだろうが、んなこと知らねぇ。ムキになりたくなるぐらい、なんかひでぇんだよ。最近は。マジで。
だから言わせてくれ。俺様にちょっと言わせてくれ。
“ S ” っつーのはな?
相手が、本当はイヤなのか感じてるのかわからなくなるような曖昧で微妙な部分を、うまくこっち側から働きかけて刺激してやることなんだよ。お互いがより燃え上がるためとか、より興奮するための、情熱の炎にふりかける油なんだよ。
“ M ” っつーのは、そういう刺激を自分が受けて初めて、そういう刺激に心を開いていけるようになっていくことなの。むしろ、その刺激であったからこそ、その人に心を動かされたり、人それぞれに、それぞれの刺激を受けることで、その人との関係を築いていけるようになることなんだよ。
イヤがりながらも感じてしまってるっていう意味では、『 Wikipedia 』でもいいよ。相手からの刺激で目覚めてくっていう開き方を見れば、それは『 Wikipedia 』だよ。
でもな?
違うだろ? それって微妙に違うだろ?
その人がイヤがってるのを見て、それを知った上で、またさらにそれを強要しつづけるってのは、まったくもって全然質が違うんだよ。その場そのとき、その瞬間では、たいして差はないかもしらん。
でもな?
後味が違うんだよ。その人のなかでの残り方が。またの名を、余韻がさ。
相手がイヤがってることをやりつづけるってのは、ただの “ ヤなやつ ” でしかないの。
相手の気持ちお構いなしに命令したり強要したりしつづけるのは、よっぽどの “ 庶民皇帝 ” なの。エンペラー。それか、バカ。
ただただ痛めつけられつづけるのも、命令されつづけるのも同じ。
それで心が本当に感じてるなら別だけど、“ ただのヤなやつ ” と “ ただの S ” とでは、大きな差がある。“ M ” も、ただの受身なら、そんなことすら感じないだろう。
受身は受身でも、やらされつつも、やらせているということ。自分にはそんな意識はなかったとて、相手に “ そうさせてしまう ” という状況を作り出してしまうわけだ。
“ S ” には “ 巧さ ” が必要で、“ M ” には “ 心の眼 ” というやつが必要だ。
というより、そのどちらを持ってるかによるんだな。
“ S ” とは“ 刺激 ” であり、“ SENSE ” だ。
“ M ” とは、“ まなざし ” であり、“ MADE ” なのだ。
っつーか、S か M かなんて、どうでもいいんだよ、んなもん。
以上。
わかったか、おまえたち。
- April 8, 2008 6:15 AM
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